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Carbunculus 7 最後の子供達

 女にとって、家族は全てだった。
 優しい夫。可愛い子供。それらがあれば幸せだった。他に何もなくとも、ただそれだけで。
 嗚呼、だが、どこで狂ってしまったのか。
 夫は、ある日突然いなくなった。朝、出かけるときはいつもと変わりなかった。けれど、その夜、夫は帰ってこなかった。
 その夜は、そんな日もあるだろう、と思っていた。二日目は、どこの女のところにいるのだろう、と考えた。三日目。今日は帰って来るだろう、と思った。
 毎日毎日、待って、そして、もう、戻って来ることはない。そう、不意に、悟ってしまった。
 それでも女は耐えていた。その身は二つ。せめてこの子を産む頃には、帰って来るだろうと、ないと分かっていた希望に縋っていた。
 それに子供。産まれるはずだった女の子。確かに産まれてはきた。命亡き骸として。
 産まれてきたら、夫と上の子と一緒に、祝ってやろう、と、そう思っていた。なのに。
――私の子供は、どこに行ったの?



 深夜、人通りも絶えた三区の道を行く、黒服の女がいる。闇に紛れるその姿は人目につかない。
 曲がり角まで来たところで、女は一度足を止め、スウィートリートの方を振り返り、ふいと顔を背けて闇の中へ消えていった。



 翌日、蜜は牡丹を連れて三区の外れ、スズナの家へと向かっていた。道中では、先のように声をかけられることもなく、二人は目的地に辿り着く。
「いらっしゃーいでござる」
 扉を叩くと、中から元気な声と共にスズナが顔を出した。そのまま中に通され、三人での団欒となる。
 スズナ手製の食事を味わいながら、話に花が咲く。
 その途中、牡丹が座を立ったのをきっかけに、スズナは蜜の傍に走り寄った。 
「どうした?」
「蜜殿、実は――」
 昨日、ナーヴェールから聞いた話を伝える。聞くうちに、蜜の表情が揺らぐ。不安、心配。そんな表情が、彼の端正な顔に浮かんだ。
 牡丹は、蜜にとってかけがえのない存在だ。例え、血は繋がっていなくとも。しかしその繋がりは、彼を目の敵にする者からすれば、格好の標的であることも、蜜は承知していた。
 そこへ、ぱたぱたと牡丹が戻ってくる。どこか表情を陰らせた蜜に気付き、牡丹はことりと首を傾げる。
「牡丹、当分一人で外を出歩くな。スズナ、牡丹を頼む」
「任せるでござる」
 とん、とスズナが胸を叩く。その様子に、蜜は口元を緩めて愁眉を開いた。
 牡丹の手を引きながらの帰り道。行きとは違う道を通る。その途中、スウィートリートを通りかかった。
 バレンタイン・デーには人で溢れかえっていたものだが、もうバレンタインは過ぎている。そしてホワイト・デーはもう少し先だ。
 両側に立ち並ぶ店が開店している中、一軒の店だけが『本日休業』のプレートを出していた。
『Dare’s Oven』と書かれた看板が掲げられたその店の横を通り抜けるときに、ちらりと横目で店内を見る。灯りが落とされた店内を差し込む夕日が照らしている。橙色のフィルムを通したように、全てが茜色に染まっていた。
 牡丹をSoleilまで送り届けた帰り道、四区までの道を歩いていた蜜は一瞬足を止めた。背後から、確かに後をつけてきている気配がする。
 何気ない様子で振り返る。さほど遠くではなく、充分視認できる距離に、フードマントのフードを深く被った人影があった。膝丈のスカートからして、女だろう。
 夕日を背に受けた女の足元から、影法師が長く伸びている。
 蜜が気が付いたことに気付いたのか、女は三日月のように口元を歪めた。そしてスカートの裾を摘み、その風貌には似つかわしくない、優雅な動作で頭を下げて横道へと消えていった。




 宵の口。オレクロウはギムレットにやって来ていた。酒を呑むためではない、情報を得るためだ。
「いらっしゃい」
「マスター、例の件、情報は?」
 カウンター席に座り、開口一番、オレクロウがそう尋ねる。ジンの方はそれを聞いて片眉を跳ね上げた。
「多少はな。まず、『デールの子供達』は表向き、二区の孤児院だった。『デールの子供達』ってのも、孤児院の名前だな。孤児院そのものは、八年前に建物も含めて壊滅している。噂じゃ『メルム・モルス(災いの死神)』に盾突いたせいで潰されたとか、対抗してた三区の『鴉の子』って勢力と潰しあったとか言われてたけど、実際どうだったのかは分からん」
「……『鴉の子』?」
 その呟きは、オレクロウの一つ隣に座っていた蜜の口から発せられたものだった。
「何だ、知ってんのか?」
 燗をした酒を出しつつ、ジンが尋ねる。首肯した蜜は猪口を傾けながら、数日前のことを語り出した。
「――と、こんな話だ。三区でのことだし、気になってはいたんだが……」
 手際よく自分に注いだホワイトレディ(ジン、ホワイトキュラソー、レモンジュースで作る白いカクテル)を呑みつつ、ふむふむと聞いていたジンは、軽やかなドアベルの音に顔を上げる。
「いらっしゃい。お、ユリンちゃん、何だ、元気そうじゃねえか」
 声をかけられ、ユリンは照れたように頬を掻いた。
「いや何か、心配かけちゃったみたいですみません。さてっと、何かリクエストはありますか?」
 酔客達から次々とリクエストが挙げられる。
 しばらくの間、ギムレットの店内には、酔客の声と笛の音が響いていた。
 一通り演奏を終え、ユリンもカウンター席に腰掛ける。
「ジンさーん、こっちにも……カシスソーダ一杯」
「おいおい、いきなり飲んで大丈夫かい?」
「ん、まあ快気祝いってことで」
 あはは、と笑うユリン。その前に置かれた緋色のカクテルは、彼女の髪とよく似ていた。
「んで、実際のところ、何があったんだ?」
「や、あたしにもさっぱり。いきなり攫われるわ閉じ込められるわ、出ようとしたらしたで何か人は死んでるし……こっちが説明してほしいくらいで」
「うーむ。情報はなしか。そういやユリンちゃん、どこに閉じ込められてたんだ?」
「三区の端の、お屋敷の地下です。誰が住んでるのかまでは、分かりませんけど」
「三区か。なあ蜜。三区で声をかけられたって言ってたよな」
「ああ」
「ユリンちゃん、その屋敷の場所、覚えてるか?」
「はい、ってまさか」
 にやり、ジンが老獪な笑みを浮かべる。
「まあ、情報収集って必要だよな?」
 ですよね、とユリンが頷く。
「行くなら私も同行しよう。三区でのことだと言うし、少し気になる」
「ところで、お前の他には何人捕まってたんだ?」
「あたしともう一人、セツさん、でしたっけ、だけでしたよ。少なくとも、あたしが見たのは」
「二人?」
 オレクロウが口を挟む。聞いていたジンも眉を跳ね上げた。
「なんだそりゃ。数が合わねえな。他の異能者は、別の奴に攫われたのか?」
「いや、『同じ人間が攫った』」
 断定的なオレクロウの言葉に、話を聞いていた全員が怪訝な顔をする。無理もない。何の予備情報がないにも関わらず、なぜそれを断定できるのか、と、普通なら間違いなく首をかしげる。
「何か、根拠があってのことかな」
 蜜が静かに問う。オレクロウは肩を竦め、すっかり氷も解けて薄まった酒を煽った。
「異能だよ。『二つから一つ(セレクト・ワン)』。選択肢が確実に二つなら、正しい方が分かるってだけの、しょうもない異能だ」
「……ほんとは、言いたくなかったんですけど」
 ぽつりとユリンが口を開く。
「セツさん、言ってました。捕まった人達で、自分以外に生きてる人はいない、って」
 その表情は、日頃の彼女の顔からはかけ離れていて。大抵は笑顔を浮かべて、酔っ払いに絡まれてもさらりと流すユリンが、今は酷く幼く見えた。
「ジンさん、もう一杯」
「お、おう。大丈夫かいユリンちゃんそんなに呑んで。いや、俺が言えたことでもないけど」
 んー、と、言いつつ、ユリンは二杯目のカクテルグラスを口元に持っていく。白い喉が幾度か動いて、グラスが空になる。
「あー、まあ、そう、ですね。これで止めておきます。二、三日暮らせる程度は稼げましたし。それじゃジンさん、また明日、ですかね」
 ちょうど蜜も切り上げ時だと、ユリンと共にギムレットを出る。まだ春は遠く、夜風は冷たい。
「いいとこですね、ここ」
「そう思うのか?」
 この都市では、人の命など容易く消える。理由なく人が殺され、今日は生きられても、明日無事かどうかは分からない。
 うーん、と、ユリンは酒のせいで紅をなすったように赤くなった唇を尖らせた。
「まあそりゃ治安の話なら、前にいたところの方が数段上ですけど。でもここだと、何でも自分で選べますから」
 今日何をするか、どこへ行くか。予定を立てるのも、取りやめるのも自由。気の向くままに、生きていかれる。籠の鳥だった『タオ』はもういない。
「君は、自分の過去を、どう捉えている?」
 噂では聞いたことがある。隣を歩く赤髪の娘は、ここに来る前はどこぞの妓楼にいた遊女だったと。
 それを前提とすれば、酒場で見せる客あしらいが、ひどく慣れた様子なのも、納得がいく。
「過去、ですか?」
 突然の蜜の問いかけに、ユリンは思わず問い返す。
 妓女も、そういう存在を望む者がいるからこそ在るものではある。だが、己の身体を売り物とし、夜毎夜毎に違う男と身体を重ねると、蔑む者も多い。今まで何度、そんな目を向けられたことか。
 とはいえ、答えは決まっていた。
「あたしは別に、昔のことは特に何か思ってるわけじゃないんですよ。人にはあれこれ言われますけど。だって、仕方ないじゃないですか。あたしには、選ぶ自由なんかなかったんですから。与えられた場所で、精一杯やることやって生きるだけでしたよ。っと、それじゃあたしはここで。ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げ、ユリンはねぐらにしている廃屋に入っていった。縄梯子を昇り、床板の腐りかけた部分を避けながら、寝床に潜り込む。
 ととと、と近くを走っていく鼠の足音を聞きながら、青い目を閉じる。酒の酔いも手伝ってか、眠りはすぐに訪れた。



 翌朝、ギムレット前には五つの人影がある。ユリン、オレクロウ、ジン、蜜、そしてジンから依頼を受けたという黒コートの青年――ソーマ。
 ユリンの案内で三区の屋敷に向かう。門扉につけられた、鴉の紋章を見て、オレクロウが眉を潜めた。
「鴉……?」
 門扉は少し開いている。その奥の玄関扉も、また。
 すでに荒れかけた庭先を通り抜け、玄関扉から中を覗いたジンは、渋い顔で首を引いた。既に散っているのか、血臭はしない。陽気のせいか腐臭もまだない。だが玄関ホールに転がる骸は、此処で異常が起きたことを端的に伝えてくる。
 あまり周りを見回さないように玄関ホールを通り抜ける。
「さて、上か下、どっちに行ったもんか――」
 ジンの言葉に被せるように、ぎしりと二階から床が軋む音がした。一瞬顔を見合わせ、五人は静かに階段を昇る。
 階段を昇り切った先、二階の廊下に人が佇んでいる。その手にあるのは、無骨な自動拳銃。こちらに向けられた銃口は、しかしゆっくりと下ろされる。
「誰だ」
 ソーマの誰何に、人影はフードを取ることで答えた。黒い毛先を赤く染めた女が、仮面のような無表情で立っている。
「エリス……」
 オレクロウの言葉に頷きをもって返すエリス。
「お前が異能者を攫っていたのか?」
「いいえ。私はあの子を……ファンを止めようと思って来てみたの。前はここで会ったから」
「どうやら、君は事情を知っているらしいね。話してもらえるかな」
「……分かったわ」
 書斎らしい部屋に移動し、エリスは口を開いた。
 デールの子供達。ジンが得ていた情報通り、それは八年前まで、コンコルディア二区に存在した孤児院だった。
 だが、ただの孤児院であったわけではない。エリスやファンら、集められた孤児達は、ここで生きる術を叩き込まれた。闇に紛れて人を殺し、自分の命を守る術を。
 刃で、弾丸で、どこを切ればいいか、どこを撃てばいいか、それらを全て叩き込まれた。
 そして、実行できなければ意味がない、と、院長、マダム・デールは、子供達に本当に人を殺させた。
「マダムは、敵を減らそうとしていたのかも知れない。殺して来いと言われた人達の多くは、二区でも名前が知れている人たちだった」
 とはいえそれが成功することなど片手で数えられる程度でしかなく、刺客として出ていった子供達は、そのほとんどが戻ってこなかった。
「えげつねえことしやあがる」
 ジンが吐き捨てる。エリスはちょっと顔を曇らせ、話を続けた。
 あるとき、孤児院は襲撃を受けた。そのときには、エリスは既にデア家に引き取られており、詳しくは知らないが、襲われたと風の噂に聞いて行ってみれば、そこにいたのは、急所をただ一突きで殺された子供達。エリスがよく知る二人、ケイト・デールとファンの死体だけがそこにはなかった。
「誰に襲われたのか分からない。『鴉の子』かもしれない。……もしかしたら、ファンかもしれない。とにかく、これで『デールの子供達』はなくなった」
「その、『鴉の子』というのは?」
 蜜の問いに、エリスが俯いた。
「詳しいことまでは私も知らない。ただ、『楽園』に行く手段を探してる、っていうのは前に聞いたことがある。その『楽園』が何なのかは分からないけど、その手段として取ろうとしていたのが多分、『カリブンクルス』。さっきここで当主の日記を見つけて、ざっと読んでたんだけど、特殊な薬を混ぜた酒みたいだね。で、マダムとその当主が何だか張り合ってたみたいで、あたし達もよく言われてた。『鴉に負けないように』って」
 だが、あるとき当主、ジャイルズ・タリス・クロウは命を落とした。患っていた病での死だったという。それ以降、『鴉の子』の活動も止まっていた。
 そんな『鴉の子』が、ここ最近また活動し始めた。
 これまでにはなかった、異能者の誘拐。それは二代目の当主、レイン・ディオル・クロウが始めたことだった。
「異能と楽園が、関わっているようには思えないがな」
 ジンに答えたのは、その場の誰のでもない声だった。
「それが、そうでもないんだよねぇ? レインにはね、恋人がいたの。だけどあるとき、恋人に異能が発現して、それを辛がって死んじゃった。だからレインは、異能者を集めてた。『異能を排除する』方法を知るためにね」
 破裂音。オレクロウが前のめりに倒れる。
「ファン!?」
「アッハハハハハハ! 鬼さんこちら、っと!」
 ふわり、長いスカートが翻る。メイド服のの女が、階段を駆け下りていく。その後を、眼を青く光らせたソーマが、鞘に収めた刀を持った蜜が、フードを外し、拳銃を持ったエリスが追う。
「ユリンちゃん、病院に!」
「あ、はい!」
 ユリンにオレクロウを任せ、ジンも走り出ていった。



 ナーヴェールが、エルヴィールを抱いて歩くニコラを見つけたのは偶然だった。古い型のコートを着て、エルヴィールにもコートを着せて、穏やかな面持ちで歩いている。
 最近、ニコラが時折出歩いているらしいのは知っていた。エルヴィールを連れて出歩いていると聞いていた。
 気付かれないように、半分隠れて歩み寄りながら、ナーヴェールは彼女の顔を盗み見た。
 エルヴィールに向けるニコラの顔は優しくて、その瞳は温かい。
 いつからその目は、自分に向けられなくなったのだろう。エルヴィールが死んで生まれたときから、だっただろうか。
 ちぇっ、と足元の小石を蹴る。
 エルヴィールが産まれてくるのが楽しみだったのも、その死がショックだったのも、母親だけではないのに。
 なのに彼女は、自分一人だけが悲しいような顔をして、生まれた子供にと買った赤ちゃん人形を、エルヴィールだと言って育てている。ここ五年間、ずっと。
 そのときだった。横合いから飛び出してきた影が、ニコラとぶつかる。
 尻餅をついて転んだニコラの腕から、エルヴィールがさっと取り上げられる。
「エルヴィール!」
「……エル!」
 ニコラが起き上がるより早く、兄になるはずだった少年は駆け出していた。
 冷たい人形を胸に抱え、ファンは走る。背後から、追い迫る足音がする。
 キン、と、背後から飛んできたナイフが足元で弾ける。ファンは足を留め、くるりと振り返る。
 息を切らしたナーヴェールとニコラが立っている。少年の頭越しに、こちらへ迫る人影も見えた。ファンは口元だけで笑い、エルヴィールの頭を掴んで掲げた。
「エルヴィールを返して!」
 ニコラの叫びに、ファンは嘲笑で答えた。
「ああ、バカみたい。こんなもの、ただの人形なのに、ほら」
 手を、離す。支えを失って、小さな人形は音もなく落下し、その場の誰が手を伸ばすより早く、悲鳴のような音を立てて、砕け散った。
「エルヴィール!」
「待て!」
「はぁい、まず、一人!」
 駆けながら場を見ていたソーマがそれを制止するのと、破裂音が響いたのはほとんど同時だった。
 駈け出そうとしたナーヴェールの前に、どう、と女が倒れ伏した。
「え?」
 コートの左胸を血に染めて、仰向けに倒れたニコラの緑の目がナーヴェールを捉える。
「母さん……?」
「嗚呼、駄目よ、そんな顔をしちゃあ。お兄ちゃんでしょう、ナーヴェール」
 名前を呼ばれ、ナーヴェールが瞠目する。
「母さん、今、名前……」
「ねえ、いい子にしてたら、妹を、連れて帰って――嗚呼、エルヴィール、そこに……」
 ふっと、目から光が消える。死の手に魂が連れていかれた後のその顔は、苦痛など感じていないかのように穏やかだった。
 二つの死を目の当たりにしたナーヴェールの頭に、銃口が向けられる。
「さあ、二人目。君がもっと早くに、死んでたら――」
「いいや」
 硬質音。ファンの手にした拳銃が弾き落とされる。反射的に前を見る。既に間近に迫った追跡者達は、一人、二人、三人――。
(一人、いない――まさか!?)
「二人目は、お前だ」
 異能【清眼】を使用し、青い瞳を輝かせたソーマが、仕込み短刀を抜き放ち、ファンの頭上から降ってきた。チ、と舌打ちを漏らし、ぎりぎりで飛び退る。
 振るわれる短刀を避けながら、脚のホルダーからナイフを二本取り出す。
 ぎらりとファンの目が光る。
「アタシはマダムみたいになる。たくさん殺して、アタシが今度はマダムになる。だから……邪魔を、するなッ!」
 短刀を弾きざま、手の中のナイフをソーマに向けて投げつける。ナイフが地に落ちる音を聞きながら、ファンは強く地を蹴った。
「マダムになるってどういうことだい、エリスちゃん?」
「昔の口約束。一番大勢殺せた子を、マダムは引き取ると言ったの」
 冷たいニコラと、その傍を動かないナーヴェールを庇うように、ジンとエリス、蜜は立っていた。上から見下ろし、少年に向けてナイフを投げる。
 飛んできたナイフを、蜜が刀で叩き落した瞬間、エリスの拳銃が火を吹いた。
 ナイフと入れ違うように飛んで行った銃弾は、ファンの右肩を貫いていた。
「くッ……」
 視界が黒衣で遮られる。右腕が動かせない。
「邪、魔ッ!」
 左腕で振るおうとしたナイフは、あっけなく遠くへ飛ばされて、そのまま落下する。
 受け身を取って立ち上がるファンと、軽く降り立つソーマ。荒く息をしながら立ち上がり、ファンはポケットから錠剤を取り出した。
 ソーマをかわしながら、錠剤を噛み砕くようにして飲み干す。
 にぃ、と、ファンの唇が三日月型に歪んだ。
 最後のナイフをホルダーから取り出し、勢いを殺さぬままソーマに迫る。その勢いは、先とは格段に違う。
 ソーマの短刀がファンの肌を裂く。その痛みも、先の銃創の痛みも、どこか遠い。
 見えているのは、ただ目の前の黒だけ。
「急に動きが変わったな。さっき何か飲んでいたようだが……?」
 蜜が見ているうちにも、ソーマの短刀が閃き、ファンの腕から血が吹き上がる。しかしファンは、その傷ついた腕を動かして、伸ばされたソーマの腕の内側を切り払おうとする。
「急に身体が強化されたみたいな……?」
「身体強化? ……Stingerか!?」
 ファンが空中へ飛ぶ。それを追うようにソーマも飛び上がる。挑発するような笑いを浮かべ、ファンは思い切りソーマを突き飛ばした。体制の崩れたソーマが落下する。
 重力に任せて落ちながら、予備の自動拳銃をホルダーから出し、ソーマに向けて引き金を引こうとしたとき。
「遅い」
 左胸に、違和感。見れば、仕込みの刃が、胸を貫いていた。
「あ……」
 口の中にせり上がってきたものを吐き出す。何か生暖かいものが口から落ちていく。
 どさりと地面に落ちる。全身が痛い。身体のあちこちから血が流れていて、それと共に、命も流れ出ていく。
「ファン」
 目を開ける。エリスの顔が、どこか歪んで見えていた。
 かは、と血を吐きながら、自分がもう助からないと悟る。この戦いでの傷だけではない。思い通りに、いや、思う以上に動くために服用し続けたStingerは、ファンの身体を蝕んでいた。
 きっと自分は地獄へ行くのだろう。何人殺したか、なんてもう、覚えていない。
(ああ、マダムに、なりたかった、なあ)
 エリスはファンの傍に座り、じっとその顔を見守っていた。彼女の口が、最後の息を吐き出すその時まで。



 三区の墓地には、真新しい墓が増えていた。そのうちの一基、『ニコラ・アジェ エルヴィール・アジェ』と刻まれた墓の前に、いつもの薄汚れたオーバーオールを身に着けたナーヴェールが、膝を抱えて座り込んでいた。
「また来てたんだ」
 上からかけられた声に顔を上げる。花束を二つ抱えたエリスが立っていた。一つをナーヴェールの前の墓に、もう一つを隣の『ファン』と刻まれた墓に供える。
「ん」
 顔だけ向けて頷くナーヴェール。
「ごめんね」
「……」
 ナーヴェールは答えない。膝に顔を埋めて、じっと墓を見ている。
 顔を曇らせたエリスは、静かにその場を離れかけ、思い出したように立ち止まった。
 あの後、オレクロウの様子を見に診療所へ行き――幸い、重傷ではあったが致命傷ではなかった――かつての孤児院院長、ケイト・デールに事の次第を知らせるために彼女の家に行った。
 そこで見つけたのは、ニコラの手で書かれた、『ナーヴェールを助けて欲しい』という紙片。その傍にあった吸い取り紙には、その筆跡によく似た、『ナーヴェールを殺して欲しい』という文面が、鏡文字で残っていた。
 その紙片を取り出し、ナーヴェールに手渡す。ちらりと紙を眺めたナーヴェールは、手の中でくしゃりと紙片を握り潰した。
「母さんが、笑ってればそれで良かったんだ」
 ぽつりとナーヴェールが呟いた言葉は、空に溶けて消えていった。

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