Carbunculus 6 鴉は落ち、子供は進む
三区のスウィートリートに建つクッキー店、『Dare’s Oven』。そこに大きなリュックを背負って、ファンが再びやってきたのは、前回の来店からちょうど一週間後の昼のことだった。
「いらっしゃいませ」
「エリスはいますか?」
カウンターから挨拶を飛ばしたエリスの母、リーズに、ファンは平坦な声で尋ねる。
「あら、お友達? ごめんなさいね。今あの子出かけてて」
「そうですか。失礼します」
店から離れ、女は三区の一角に建つ屋敷に足を向ける。鴉を象った紋章が、門扉や玄関のドアに付いている。
「戻りました、レイン様」
「お帰り、ソラ」
薄い金髪、ライトグリーンの瞳の男――レイン・ディオル・クロウが笑顔で出迎える。
「買ってきたものは、いつものところで宜しいでしょうか」
「あぁ、頼むよ。それと、地下の『アレ』、あとどれくらいもつかな?」
レインの問いに、重いリュックを支えながら、ファンは少し眉をひそめて考え、答えを返す。
「今日明日、もつかどうか、かと」
「そうか。また誰か、連れて来なくてはならないか」
「それは私にお任せください」
静かに一歩、レインに近付く。リュックの下で握った手を下ろしながら。
「ソラ……?」
怪訝な顔のレインが、自分に起きたことを理解したのは、その胸に深々と鴉を象った柄の、銀の短剣が突き立った後のことだった。
「な……ソ、ラ……?」
胸を地に染めて、崩れ落ちるレイン。血塗れの短剣を手に、ファンは口元を歪ませる。
「ふ、ふふ、ふふふ、アハハハハハハハ!」
玄関ホールに女の哄笑が響く。
「気付かなかったんだ。気付かなかったんだ! アハハハハハハハ! バカみたい、バッカみたい! ずぅっと気付かなかったの? 本当に? 本当の、本当に? アハハハハハハハ! これで、『鴉の子』も終わり!」
「……こども、たち……!」
血を吐きながら、憎悪の炎を目に宿らせて、レインが呟く。にぃ、と歪んだ笑みを浮かべ、ファンはレインに顔を近付けた。
「ご名答。あなた達のおかげで、私はまた、マダムに近付ける。お礼に送ってあげるわ。あなた達が言う、『楽園』に」
床に倒れたレインに、再び短剣が振り下ろされる。何度も何度も、血塗れの刃は肉を裂き、血を噴出させる。
やがてそれが、レインと呼ばれた肉塊に変わり果てるまで、短剣は振り下ろされていた。
異変に気付いたのか、奥から使用人が何人か駆けてくる。状況を見て凍り付く彼らを見回して、返り血を浴びたファンの顔が、歓喜に歪む。
そして、その場の全員が物言わぬ躯になるまでは、五分とかからなかった。
返り血を浴びたまま、女は地下へと降りていく。途中の部屋で小包を一つ取り、ある一つの扉に近付き、重い音を立てて、その扉を開けた。
「生きていますか」
平坦な声での問いかけに、中にいた二つの人影が顔を上げる。赤髪の女が、黒髪の男を支えるように座っていた。
明らかな警戒の色を浮かべて自分を見る二人――ユリンとセツに、ファンは血塗れの顔で仮面のような笑顔を浮かべてみせた。
「殺すつもりはありません。動かないように」
「何のつもり?」
ユリンの言葉を無視し、ファンはセツに近付き――その肩に、短剣を突き立てた。セツが苦鳴を漏らす。
「ちょっと!?」
ふらつきながらも立ち上がり、掴みかかろうとしたユリンをファンは振り払う。あっけなく壁に叩きつけられたユリンの顎を掴み、ファンは顔を近付けた。
「急所は外してあります。すぐに死ぬようなことはありません。今なら邪魔者もいませんから、四区まで逃げられるでしょう。……逃げて帰って、お伝えなさい。『鴉の羽はもがれ、されど子供達は滅びず』と。ふふ、今度こそ、『子供達』が四区を綺麗にしてあげる」
濃い血の臭いがユリンの鼻をつく。
目の前に小包を置き、ふふ、と笑いながら、くるりと裾を翻して去って行くファンを、ユリンはきつい顔で睨みつけていた。
「……無事か、ユリン。俺のことは放っておいて、逃げられるなら早く逃げろ」
「何言ってるんですか。セツさんも逃げないと――」
「俺は無理だ。確かにすぐには死なないんだろうが、正直、立ち上がるだけの体力もない。お前一人なら、まだ逃げられるだろう」
セツの言葉は事実だ。ここに来てから水以外を口にしていないため、ユリンもセツも弱っている。ユリンはどうにか動くことはできたが、セツの方は、異能の使用すらままならないほど衰弱しきっていた。
そんな状態で重傷を負わされれば、例え致命傷でなくとも危険だ。
諦めた笑みを見せるセツの顔が、遠い記憶の中にある『彼女』の顔と重なる。
ぎり、と歯を噛む。
「馬鹿を、言わないでください。意地でも担いで帰ります」
小包には、ユリンの荷物――鉄笛だの、手帳だの――が入っていた。
セツの左肩には、鴉を象った柄の短剣がまだ突き立っている。抜こうかと手を伸ばしたところで、セツがそれを制止する。
「抜けば余計に出血する。このままの方が良い」
「分かりました。立てます?」
セツを支えながら立ち上がる。自身の異能【重力操作】で重さを軽くしながら地下を出た。
まず届いたのは、鉄臭い臭気だった。赤く染まった玄関ホールに転がるいくつもの死体。その間を通り抜け、扉に手をかける。
「……あれ?」
「どうした」
「開かない……」
ユリンがいくら押しても、外に何かあるのか、扉はびくともしない。
セツも右手をかけ、渾身の力で押すが、爪の先が入るほどの隙間しか開かない。
「逃がす気はなかった、ということか」
「いや、一ヶ所だけありますよ」
怪訝そうなセツに、ユリンは上を指差した。その先にはステンドグラスの嵌まった天窓がある。
「しっかり捕まっててくださいね」
天窓の真下まで移動し、異能【重力操作】で重力を反転させ、同時に重力を倍近くまで引き上げる。
浮遊感の後、派手な音と共に、二人の身体は宙に投げ出された。重力を調節しながら、セツを支えたまま、屋根の上に着地する。
「とにかく、四区まで急ごう」
「それより、どこか病院に行かないと……」
「ああ。治療も要るが、それより先に、このことを伝えなければいけないだろう。四区を狙う者達がいる、と……」
「いや、治療が先じゃないんですか」
「四区に行くまではもたせるさ。『家族』なんだ、守らなければ」
家族。その言葉に少し顔を曇らせたユリンだったが、分かりました、と答える。
「じゃ、走りますから、捕まってくださいね」
息を整え、重力の強さを調整する。そして思い切り、ユリンの足が屋根を蹴った。
同じ日、ナーヴェールの家には珍しく来客があった。エリス・デアだ。
「こんにちはー」
家の奥に向かって声を上げると、薄暗がりからナーヴェールがひょこりと顔を出した。
「何か用?」
「あ、ここ、ボクの家だったの? ニコラさん、いるかなあ?」
「あの人なら、二階にいるよ」
「呼んできてもらえる?」
「えー? 分かったよ。あ、あんた、名前は?」
「エリス・デア……じゃない、エリス・デールが来たって伝えて」
静かに二階へ行ったナーヴェールが、間もなく何とも言い表しようのない顔で戻って来る。
「二階にお出でってさ。階段上がってすぐの部屋」
「ありがと」
踏み板を軋ませながら階段を上る。ナーヴェールから聞いた通り、階段を上がってすぐ横にあった部屋に入ると、酒の臭いが鼻をついた。
「久しぶりねぇ、エリスちゃん」
「ええ。お久しぶりです。それより、『鴉の子』が、また動き出したのは御存じですか?」
「知ってるわよ、ほら」
ニコラが示したのは、部屋の片隅にある酒瓶。他の瓶と違い、手を触れられた痕すらない。『Carbunculus』とラベルが貼られた、赤い酒の入った瓶だ。
「『楽園』に行かないかと誘われたしねぇ。『鴉の子』のことは前から聞いていたから、そうじゃないかと思って置いていたの。エルヴィールも『楽園』に行けると言われたけど、ねぇ。そのために、誰かの魂がいるんですって。この子に魂がないから。この子はちゃんと生きてるのに。とても大人しい、いい子なだけなのに。酷いわよねえ?」
傍らの、壊れたような揺り籠から、ニコラは赤子の人形を抱き上げ、優しく子守歌を歌い始める。優しい狂気に染まった眼は、愛情深く人形に注がれている。
「ねえ、エルヴィール。エリスお姉ちゃんよ」
可愛いでしょう?と見せられた赤子に、エリスは引きつった笑みを浮かべ、可愛いですね、とどうにか口に出した。
「とにかく、気を付けてくださいね。また来ます」
そう言って、丁寧に挨拶をしてエリスは家を出た。難しい顔で、出て来たばかりの家を振り返る。
ニコラはエリスの古い知り合いだったが、あそこまで変わっているとは思わなかった。
エリスがいた孤児院を、結婚を機にニコラが止めてからは、二人の間には行き来もなかったのだ。在籍していた子供と、女中という関係では無理もないだろう。
通りに出ると、大きなリュックを背負ったファンが、どこかに歩いていくのが見えた。何をしているのか気になり、エリスはそっと後をつけて行く。
ファンが向かった屋敷。鴉を象った紋章が付けられた門扉を見て、エリスは眉を寄せた。
(どうして、ここに?)
考え込んでいると、遠くから狂ったような笑い声が聞こえてきた。その笑い声の主を瞬時に悟り、エリスの背が凍り付く。
じっと息を潜めていると、笑い声は止み、血だらけのファンが鼻歌でも歌いそうな顔で出てくる。
「また会ったね、エリス」
「ファン……何をしたの?」
「羽をもいだの。これで私はマダムに近付いた。後は……」
ファンの瞳がエリスを捉える。エリスはその眼を真正面から見返した。
「好きにはさせない、って言ったらどうする?」
挑戦するようなエリスの視線を受けて、ファンはにっこりと、嬉しそうに笑った。
「そうなの? だったらあなたとも戦うわ。私はマダムになりたいの。皆殺して、たくさん殺して、羽をもいで、そうしてマダムを殺したら、今度は私がマダムになれるの」
ファンの瞳は、綺麗なまでに狂気に染まっていた。
家の傍の日当たりのいい場所で、腹を見せて寝そべるぶち猫を、たまたま見つけたスズナは思わず頬を緩めた。
猫もスズナを見つけたらしく、みゃ、と一声鳴いてみせ、ころん、ころん、と身体を転がす。土で汚れることなど気にもせずに。
傍にしゃがみこんで、喉元を撫でてやると、猫はごろごろと喉を鳴らした。
もう一度、ころりと転げてから起き上がり、猫はスズナを見上げてにゃあ、と鳴く。
「どうしたでござ……わ、」
しゃがんでいたスズナの膝に前足をかけ、猫はひょい、と飛び上がる。ふにふにと、肉球で無遠慮にスズナの膝を踏み付け、くるりと丸くなった。
どうやら、スズナの膝は寝場所と決められてしまったらしい。
しゃがんだ姿勢というのは楽ではないが、幸せそうに寝ている猫をどかすのも気が引ける。
この白と黒のぶち猫は、どうやら三区をテリトリーにしているらしく、スズナも何度も見かけている。というより、この猫にとってスズナの畑は良い昼寝場所なのか、菜っ葉の緑に混じって、この白黒が昼寝をしているのを、スズナは既に数えきれないほど見ていた。
「お主はいつものんきで……あ痛、爪はだめでござる」
爪を立てられたお返しにと、猫を両手で撫でる。
猫は気持ちよさそうに喉を鳴らしていたが、ふとあるものに気付いたスズナは手を止めた。
猫の首に、何かが巻かれている。薄い紙を細く巻いたものらしい。よく見れば、何か文字が書かれているのが透けて見えた。
誰かがわざわざ結わえたのだろう。少しの間、外してもいいものかと悩んでいたスズナだったが、結局そろりと手を伸ばして紙を解いた。
紙を開くと、細かい文字らしい記号がびっしりと書き込まれていた。そして紙の左端には、点々とくすんだ赤い染みが付いていた。
(血?)
まさかと首を振る。も、一度胸に浮かんだ疑いは消えない。
紙を引っくり返してみて、スズナは思わず、あ、と小さく声を漏らした。
薄手の紙に書かれた文字は、裏に透けて見えていた。正しい向きで。
書きつけは流れるように書かれている。文字は崩してあったが、スズナには見知った文字、読むのに苦労はしなかった。
――誰かに攫われて地下に閉じ込められてる。他にも捕まっている人がいる。それと、四区の人に、他の区で道を聞かれても相手にしないように伝えて。 ユリン
書かれていた内容に息を呑む。そのときだった。
「スズナの姉ちゃーん。いるかー?」
少年の声が響く。ぴょいと猫が飛び降り、軽くなった膝を惜しみながら振り返ると、ナーヴェールが手を振っている。
「おや、どうしたでござるか?」
「ちょっと聞きたいんだけどさ。Soleilに女の子いるだろ、牡丹って。その……牡丹の兄ちゃんって、どこにいるんだ?」
「蜜さんなら、四区でござるが……何かあったのでござるか?」
不思議そうなスズナに、ナーヴェールはこの間のことを語った。
「でさー、言おうかと思ったんだけど、俺顔知らねーんだ。スズナの姉ちゃん、確かあの女の子と仲良いんだろ。知ってるかと思って」
「そういうことなら、私が伝えておくでござるよ」
「お。マジか。よろしくなー」
来たときと同じように、慌ただしく少年が走り去る。その後ろ姿を見ながら、スズナは少し厳しい顔で、着物の上から懐に手を置いた。