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Carbunculus 5 獄中の二人

「……い、おい、起きろ」
 低い声が聞こえてくる。ユリンが重い瞼をどうにか持ち上げると、誰かが自分を覗き込んでいるらしいと気付いた。
 目は開けられたものの、瞼だけでなく、全身が重い。頭もくらくらするので、ユリンはそのまま横になっていた。
 目だけ動かして、周りを見る。かなり上の方に灯り取りの小窓が付けられた、薄暗い部屋。
 部屋にいるのはユリンと、彼女を起こした男だけだ。
「どこなんです、ここ」
 寝たまま尋ねると、さあな、と素っ気ない答えが返ってきた。
「それよりも、ここに来るまでのことは思い出せるか?」
「……っと、三区に買い物に出て……確か、道を聞かれて……その後、後ろから、布を……」
 記憶を辿るが、その先がはっきりしない。
 聞いていた男が、同じか、と呟いた。
「同じ?」
「俺も同じだ。道案内を頼むと見せかけて、薬で眠らせて連れて来る、その手口もな。最も、俺がここへ連れて来られたのは、お前より前だったが」
 顔を横に向け、男を見る。小窓を見上げるように、横になっているユリンとは逆に、男は窓に背を向けるように座っており、その顔は良く見えない。疲れたような響きの声からして、かなり年配なのだろうか。
(しかし、ほんとに攫われるとはね)
 四区を出た異能者が攫われているという噂を思い出した。襲われても自分の異能なら逃げられるだろうと、たかを括っていたのは間違いない。
 とはいえ攫われた今になって、自分の油断を悔やんでも仕方がないと、気持ちを切り替える。
 そこへ、足音が一つ近付いてきた。男が溜息を吐く。
「全く、懲りずに良く来ることだ。おい、しばらく我慢していろよ」
 何を、と聞くより先に、身体に重みがかかった。異常な大力で押さえつけられるような感覚と共に、頭痛が酷くなり、視界に黒が混ざり出す。息が上手く吸えない。意識が遠のきそうになる。
(これって……)
 この感覚には覚えがある。意識を失うまいときつく歯を食いしばり、自身の異能【重力操作】で、自分にかかる重力を軽くしてみると、重さは嘘のように消えた。
 ようやくまともに息をしながら、薄目を開けて男を伺う。男は壁に背を預け、片膝を付いて座っているらしかった。
 軋んだ音を立てて扉が開く。慌ててユリンは目を閉じた。
「おい、いつまでこんなところに閉じ込めておく気だ」
 男の言葉に、答えは返ってこない。それでも誰かが戸口にいるらしいのは、人の気配で知れた。
「……その娘なら、お前らがここに放り込んでから動きもしないが、連れて行くか? この部屋に入って、動けるもんなら、な」
 どこか挑発するような男の言葉。その後に、男のものではない、別の呻き声と倒れる音が続く。
 ユリンの身体に、じわりと重みがかかる。【重力操作】で弱めているにも関わらず。
 そろりと男の方を見てみると、男は先と同じように座っている。反対側に目を移すと、倒れている人影が見えた。
 男は立ち上がり、目を閉じたユリンをよそに、倒れている人を部屋の外に蹴り出した。
 そうして扉を閉め、その前に座る。
「……お前、本当は動けるな? 随分上手くやってたが、息の仕方が、初めとは違ってる。それに、俺の方を見ていただろう」
 言い当てられて、ユリンはゆっくりと身体を起こした。まだ少し頭がくらくらするが、この際そんなことは言っていられない。
「気付いてましたか」
「まあ、これでも目が早い方なんでな。……ところでお前、名前は?」
「誰だか分からない人に、名前を言うと思います?」
 ユリンの言葉に、男は肩を竦めた。
「……俺はセツ。四区民だよ」
「セツさん、ですか。あたしはユリンです」
「妙な名だな。幽霊(ユリン)とは」
 セツの呟きに、ユリンは眉を上げた。
 日常的に英語が使われるコンコルディアでは、ユリンという語が“幽霊”を示すことを知る者はほとんどいない。仮に知っているとすれば、アツヤかスズナくらいだろう。
 その意味を知っているということは、この男も元はユリンの故郷の方にいたのだろうか。
「変で悪かったですね。魔除けのおまじない、らしいですよ? あたしは詳しくないですけど」
「いや、すまない。人の名になるような言葉じゃないと思ったものだから……」
 セツが言葉を切る。
「ま、いいですよ。それより、一体誰がこんなことを?」
「さあな。お前、心当たりはないのか?」
「別に……。四区から出た異能者が攫われてる、とは聞きましたけど」
「なら、俺やお前をここに連れて来たのはそいつらだ。……まあ、もう生きているのは俺達二人くらいのようだがな」
「え、じゃ、それって……でも何でそんなこと、知ってるんですか?」
「つい昨日、お前がここに放り込まれる前に聞いたんだ。『これでとりあえずは二人になった』とな。それにいくら攫うと言っても、異能者相手じゃそうほいほい攫えないだろう。まあ俺のように、いざとなったら異能に頼って逃げられると油断したような奴なら簡単かもしれないが」
「そ、そうですね……」
 密かに痛いところを突かれたユリンに眉をひそめたものの、セツは言葉を続ける。
「異能者そのものを狙っているとなると、四区そのものに恨みがあるのか? 四区に直接仕掛けないのは、ナンバーゼロや過剰防衛を恐れてのことか……。馬鹿な奴らだ。四区から出たところを攫ったって、“家族”に手を出されて、黙って済ませる訳はないというのに」
「“家族”、ですか」
 ユリンが一言を繰り返す。その言葉に混じる冷ややかな調子に、セツは怪訝そうな眼を向けた。
「何か不満でも?」
「……不満? いいえ別に。でもあたしは、その言葉に期待するのは、とうの昔に辞めたんです」
 少し伏せた顔と、顔にかかる暗い赤い髪。悲しげな、そしてどこか諦めたような声の響き。
(似ている……)
 ふと、セツはそう思った。かつて彼がコンコルディアを出て、外を旅していたときに出会ったある女と、目の前の娘は良く似ていた。
「とりあえず、ここがどこだか分からないことには、な」
「それならあの窓から外を見れば、何か分かるんじゃないですか?」
 ユリンが指差したのは、灯り取りの小窓。窓とユリンとを見比べて、セツは娘に呆れた目を向けた。
「壁に登れってか? こんな壁、手足をかけるところもないのに、登れる訳がないだろう」
「あたしなら大丈夫ですよ」
 壁の前に立って、両手を壁に付ける。そのまま【重力操作】を使い、自分に働く重力の方向を変える。壁を這うようにして登っていくユリンを、セツは下からぽかんと眺めていた。
 小窓に顔を近付ける。格子の向こうに芝の生えた地面と、塀らしいものが見えた。
 人が行き来している様子はないが、芝は綺麗に手入れがされている。人がいない場所で、芝の手入れだけがされているはずはないから、ここには誰かが住んでいるはずだ。
 ふわりと床に飛び降りて、見たものをセツに伝える。
「なるほど、ならここは、どこかの地下か」
 その話を聞いて、セツは何か考えていた。
 ユリンとセツの立ち位置が逆になり、ようやくユリンにもセツの容姿がある程度見て取れるようになった。
 肩を掌の幅ほど越して、古い擦り切れたフロックコートを着た背にかかる、青みがかった黒い髪、濃い青の瞳。閉じ込められているせいか、少し痩せてはいたが、声で思ったほど、セツは年を食ってはいないようだ。まだ三十代の前半だろう。
「どうにかして、俺達がここにいることを誰かに知らせなけりゃならないな」
「ですね。でも、どうやって? あたしも荷物、取られてますし」
「書くだけならできるさ」
 セツはおもむろに着ていたフロックコートを脱いだ。歯と爪を使って袖口の縫い目を解く。
 目を丸くしたユリンをよそに、セツは袖口から薄紙を一枚引き出した。次いでポケットの糸を解き、細いペンを取り出す。
「とはいえ、向こうに読めないように書かなきゃならんだろうが……お前、良い案でもあるか?」
「そうですねえ…………あ、」
 少し考えて、ユリンは手を打った。セツからペンと紙を受け取り、さらさらと字を綴る。英語とは違う文字が、紙を埋めていく。
 セツの方は、眉を寄せてその文字を見ていた。英語ではないことは彼にも分かったが、ではどこの言葉かというのは、彼にも分からなかった。
(見覚えはあるような気がするが……)
「でも、これをどうするんですか?」
 ユリンの問いも最もだ。誰かに自分たちの状況を伝える文を書いたとはいえ、言伝る方法がないのでは仕方がない。
「そっちのあてはあるが、その前にもう一つ手伝ってくれ」
 セツがフロックコートのポケットから、テープと一ドル硬貨を一枚取り出した。硬貨を手に握りこんで、その手を開いたとき、硬貨は二つの薄い金属片に分かれていた。ぞっとするほど巧妙な仕事で、その硬貨は切り割られ、外側には一切傷を付けずに、中だけがくり抜かれており、縁には螺旋が彫られて、自由にねじ開けられるようになっていた。
 中がくり抜かれ、物が入れられるようになったその硬貨の中には、果たして一本の細い鎖のようなものが入っていた。
 ユリンは知る由もないことだったが、これは昔、囚人が脱獄する際に用いた道具だった。
 どうにかして貨幣を手に入れた囚人は、その薄い硬貨を二つに割り、外側には傷を付けずに中だけをくり抜いて、縁にねじ合わせられるように螺旋状の溝を彫って、貨幣の形をした箱を作る。
 その中に何を入れるのか? 大抵の場合、これもどうやってか手に入れた時計のゼンマイを入れておく。そのゼンマイは片側が刃になっており、一種の鋸として使えるようになっている。
 この細い鋸を頼みとして、囚人は鎖を切り、格子を切って自由を手に入れるのである。
「こんなものだが何だって切れる。格子でもな」
 格子、と聞いて、ユリンは思わず上方の小窓を見上げた。
「あれを切るんですね?」
「察しが良いな」
 ふっとセツが口の端を上げた。セツのまとっていた、どこか冷たいような雰囲気が少し緩む。
「俺は届かないが、お前ならできるだろう。切れたらこれで止めておいてくれ。それと……」
 セツがユリンの耳に口を寄せ、何事か囁く。
「ええ、分かりました」
 ぜんまいとテープを受け取り、ユリンが壁を上る。本当にこんなもので格子が切れるのかと思っていたが、細い格子の一本にその鎖を当てて左右にこすっていると、思ったよりも簡単に格子は切れた。
「降りろ、人が来る」
 下から低い声でささやかれ、ユリンは急いで壁を滑り降り、手を握りしめて鎖を隠した。
 やって来たのは、仮面のように無表情な男だった。身体に合っていない仕立ての服を着た男は、水の入ったコップとパンを乗せた皿を置くと、そのまま黙って出て行った。
「水は飲んでもいいが、パンは食うなよ。妙な薬が混ぜられてる」
 言われてユリンはコップを空にしたものの、パンには手を付けなかった。セツも同じく、水は飲んでもパンには触れようともしない。
 一時間ほどが過ぎて、先と同じ男が皿とコップを取りに来た。パンが残っているのを見ても、男は何を言うでもなく、黙って皿とコップを持って出て行く。
 男の足音が聞こえなくなるまで待って、ユリンは再び格子を切る作業に戻った。窓から見える景色は薄暗く、直に夜なのだろうと思われた。
 格子を切ってしまうと、ユリンは渡されていたテープで、切ったばかりの格子を止め直した。こうしておけば、格子が切れていても、すぐには気付かれないというわけだ。
 床に降りて、セツにゼンマイとテープを渡す。
 そのうちに、上の方から微かな鳴き声が聞こえてきた。セツはにやりと笑い、ユリンの肩を軽く叩く。うとうとしていたユリンはぱっと目を開け、あらかじめ細く巻いていた手紙を持って、灯り取りの窓の傍へ登って行った。
 力を込めて格子を外し、外を見る。すぐ傍で、白と黒のぶち模様の猫が、ユリンを見て鳴き声を上げた。
 舌を鳴らして猫の注意を引きつつ、そろりと手を猫の方へ伸ばす。
 人懐こい猫は、遠慮なくユリンの手に頭をぶつけてきた。
「よしよし」
 手早く手紙を猫の首に結び付け、軽く撫でてやってから格子を戻す。猫はまだユリンに興味を持っていたらしかったが、彼女の姿が窓の傍から消えると、やがて興味を無くしたようにその場から去って行った。
(これでよし、と)
 床に降り、セツに手紙を言伝たことを伝える。セツは頷いていたが、ふとユリンの左手に目を留めた。
「ん、怪我をしたのか?」
 セツの言葉に、自分の手を見る。薄暗くなってきた部屋の中でも、左の掌に幾筋か、傷がついているのが分かった。
(隠したときだ)
 手に握りこんだ拍子に切ったのだろう。深い傷ではないが、気付いてしまうと、傷は存在を主張するかのように痛み始めた。
 セツがハンカチを取り出し、細く裂いてユリンの掌に巻く。
「そうしておけば、血も止まるだろう」
「ありがとうございます」
 ユリンもにこりと笑う。その笑みを見て、セツはなぜか、少し戸惑ったように思われた。
「とにかく、後は待つしかない。大丈夫だ、必ず誰か気が付くはずだ」
「そうですね」
 その夜、眠るユリンにフロックコートをかけてやりながら、セツはじっとその顔を眺めていた。
(やはり、似ている)
 セツの脳裏に蘇るのは、やはり過去に会ったある女。その女は彼にとっては初めての女であり、それゆえか、今でも忘れられない女であった。
 あの女は、今どうしているだろう。今でも客を取っているのだろうか。
 壁にもたれかかったセツは、思いに沈む様子で目を閉じた。

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