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Carbunculus 4 雨中の出逢い

 雨が降っていた。
 古い長椅子に身を横たえて、アツヤはその音を聞くともなしに聞いていた。元々廃屋のような家だ。嫌でも雨音は耳に入って来る。雨漏りしないだけまだいいと言うものだ。
 雨音を聞きながら、うとうとと船を漕ぐ。微睡みは眠りを呼び、眠りは夢を呼ぶ。
 夢は何の脈絡もなく、切れ切れなもの。ストーリーがあるわけでもなく、まして過去の追憶という訳でもない。
 しばしの休息から目を開けると、雨はまだ降っているようだった。
 体勢を変えようとして身体を起こしかけ、背の鈍痛に顔をしかめる。
 以前、鐘の塔でユリンと対峙したときに打ち付けて痛めた背中は、あれからかなりの日数が経っているにも関わらず、どうにも良くならなかった。
 晴れの日は良いが、少し天気が崩れると痛み出す。医者が嫌いな彼は、そういうときには横になって一日を過ごすのが常だった。
 何日かおきに、ナーヴェールが帰ってきては、買ってきた薬を置いていく。すぐ近くに、いい薬屋があるらしい。どうしても痛みに耐えきれないときには、アツヤはその薬を飲むこともあった。
 表の方から小走りの足音が聞こえ、それから間もなくずぶ濡れの少年が、建付けの悪いドアを開けて顔を覗かせた。
「ひっでえ雨。お前がこの前髪を切ったからじゃねえの。願掛けで切らねえとか言ってたのに、ばっさりやっちゃったもんな」
「馬鹿を言え」
 からかい口調のナーヴェールに、アツヤは軽く鼻を鳴らして答えた。
「必要がなくなったから髪を切ったんだ。それで天気が変わってたまるか」
「どうだかねえ」
 ナーヴェールが笑いかけたところへ、階段の軋む音が聞こえてきた。慌ててナーヴェールが口を閉じ、足音に耳をすませる。
「帰ってたの」
 戸口に現れたニコラは、いつもの小言も言わないで、ナーヴェールに声をかけた。滅多にないことに、ナーヴェールは戸惑った様子で、戸口に立つ母親を振り仰ぐ。
「ちょっと使いに行ってきて。そら、買うものはこれに書いてあるから。それと、こっちの手紙を、二区のケイト小母さんに届けてきて」
「雨なのに?」
 消極的に反抗してみたナーヴェールだったが、ニコラは金と手紙を渡して一言、「お行き」と言っただけだった。
 切れ切れに何か口ずさみながら、ニコラは階段を上ってゆく。
 ナーヴェールはうんざりした顔で、部屋の隅から乾いた服を引っ張り出して着替えていた。母親から小言以外の言葉を聞いたのは久しぶりだったが、結局彼女にとって、自分は眼中にない存在なのだ。
(最後に名前呼ばれたの、いつだったっけか)
 ふとそんなことを思ってみたが、思い出せない。少なくとも、父親がいたときはまだ名前を呼ばれていたはずだ。
 聞こえる雨音は先よりも大きくなり、雨脚が強まったことも察せられた。この雨の中、外に出なければならない少年が流石に可哀想になり、アツヤは持っていた雨合羽を彼に貸してやることにした。
 当然ながら、雨合羽はアツヤの身体には合っても、ナーヴェールには大きすぎたので、あちこちを結んだり止めたりして、どうにか普通に歩く分には支障がないようにした。
「そんじゃ行ってくるよ。あ、そうだ。薬、いるか?」
「いや、まだ残ってるし、今日はいい」
 返事の代わりに、まるで大人のように片手を上げて、ナーヴェールは雨の中へ飛び出して行った。
 大粒の雨が、容赦なくナーヴェールを打つ。先に手紙を届けに行こうと、二区に続く道を走っていると、不意に鮮やかな色が目に飛び込んできた。
(ん?)
 走る速度を落として、その方を見る。そこに誰がいるのかに気付いた瞬間、ナーヴェールは思わず近くの物陰に身を隠した。
 雨宿りをしているのだろう。コンコルディアでは珍しい和服に桃色の髪の少女が、スケッチブックを抱えて佇んでいた。
 少女――牡丹とは顔見知りではあるものの、初対面でいきなり喧嘩をした上に、その後もほとんど会話らしい会話はしたことがない。
 向こうは気付いていないようだから、このまま行き過ぎても問題はない……ない、が。
(でも、ほっとくのもなー)
 む、と唇を尖らせる。雨は弱まる様子はなく、時刻はもう昼をとうに過ぎている。雨が弱まる前に、暗くなるのは間違いない。
 ナーヴェールはくしゃりと亜麻色の髪をかき回し、物陰から出て牡丹に近付いた、
「何、してるんだ。こんなとこで。こんな日に一人でいると、鴉に引っさらわれるぞ」
 顔を上げた牡丹は、目の前にいるのがナーヴェールだと気付くと、たちまちぷいとそっぽを向いてしまった。
 間の悪い沈黙。ええと、とナーヴェールは内心で言葉を考える。
「家。Soleilだったっけ。送ってってやるよ」
 そう声をかけてみたが、答えは返ってこない。牡丹の事情を知らないナーヴェールは、ちょっと唇を尖らせる。
「どうなんだよ」
 無視されたのかと、言葉に少し棘が混じる。牡丹の方は、スケッチブックを開いてペンを走らせていた。
『ぬれるから、いい』
 見せられたスケッチブックの文字と、牡丹とをナーヴェールの緑の目が見比べる。
「は……入ればいいだろ、ほら、こうすれば二人くらい……」
 話せないのか、と言いかけたのを飲み込んで、素知らぬふりで合羽の結び目を解く。今更思い出したが、バレンタインのときには名前を呼ばれたものの、牡丹が会話らしい会話をしているのは見たことがない。
 大人ものの合羽は、裾を広げると、子供二人が入るのに充分なくらいの大きさがあった。
 合羽の片側を牡丹に被せ、もう片側を自分が引き被る。
「んじゃ、歩くぞ。こけるなよ」
 気付けばそう付け足していた。牡丹が緑の目を丸くして、ナーヴェールを見つめる。女の子にそうやって見られるのも、女の子と二人でいるのも何だか気恥ずかしくて、ナーヴェールは思わず顔を背けた。
 一人用の合羽を二人で被っているのと、牡丹に合わせようとナーヴェールが歩みを遅くしているのとで、二人の進む速度はゆっくりとしたものだ。
 とはいえ暗くなるにはまだ間があるし、Soleilまでの道は知っているので迷うことはない。
 歩きながら、ナーヴェールは横目で牡丹を見ていた。ナーヴェールの知る女の子といえば、彼のように薄汚れた服を着て、男の子に混じっているような、勝気でお転婆な子供ばかりで、牡丹の様な、女の子らしい女の子はまずいなかった。
 それに、生まれも育ちもコンコルディアだったナーヴェールには、牡丹が着ている和服も珍しく、それもあって、ついしげしげと眺めていた。
 黒地に大輪の花を染め出した着物は、少女に良く似合っている。
 何度目かに目を向けたとき、その視線に気付いたのか、横を向いた牡丹と目があった。
 物問いたげな緑の目に、どう言ったものかと頭を働かせる。
「お前のいたとこってさ、皆そんな服着てんの?」
 ぱっと思いついたことを口に出す。いきなり何を言い出すのかと、怪訝そうな眼を向けつつも、牡丹はこくりと頷いた。
「へーえ、何かいつもお祭りみたいだな」
 感心したような声を上げるナーヴェール。目を上げた拍子に、Soleilの建物が目に入る。大分近くまで来ていたらしい。
「おいおい、一人前にデートのつもりか? ガキのくせに、ませやがって」
 道を遮られる。相手はまだらに髪を染めた男が一人。ナーヴェールはむっとした顔で男を見上げた。
「どけよ。急ぐんだから」
「そう言うなよ。こんな可愛い子を連れて――」
 牡丹の方に伸びた男の手を、素早くナーヴェールが払いのけた。そのまま一歩足を出して、牡丹より前に出る。
「何しやがる、小僧!」
「へん、子供に手を出そうとするなんて、とんだ大僧だ。そんなに女が良けりゃ、帰って自分の母ちゃんにでも抱き着いてろよ」
 瞬間、ナーヴェールの身体が宙を舞って、濡れた地面に叩きつけられた。牡丹が小さく息を呑み、小さく一歩後退った。
「痛ってぇな、この!」
 地面を転がって泥だらけになり、唇でも切ったのか、血を流したナーヴェールが、血の混じった唾を吐きながら、自分よりも体格のいい男に飛びかかった。
 男の拳がナーヴェールを捉える。再び吹っ飛んだナーヴェールだったが、すぐに起き上がる。しかし起き上がったところを、男に胸倉を掴み上げられた。
 じたばたと足をばたつかせるが、体格も力も男の方が上だ。
 それでもナーヴェールは、とっさに両手の爪を男の腕に立て、男の手が緩んだところへ、今度は自分の手で、しっかりと男の腕を掴み、間髪を入れずに思い切り噛み付いた。
 ぎゃっと悲鳴を上げ、ナーヴェールを放り出した男が悪態を付きながら去って行く。尻餅をついたナーヴェールは、口の端から垂れた血をぐいと拭い、男の去って行った方に向かってしかめっ面をしてみせた。
 さて牡丹はと、辺りを見回すと、すぐにその姿は見つかった。
 行くぞー、と声をかけ、歩き出そうとすると、後ろから軽く服を引かれる。
『大丈夫?』
 スケッチブックの文字を読んで、ナーヴェールはその緑の目を瞬いた。
「これくらい、平気だよ」
 合羽の裾を持ち上げて、引きずらないように歩く。牡丹だけに合羽を被せて、自分はすっかり濡れてしまっていたナーヴェールだったが、本人はけろっとして、泥が落ちていいやと笑っていた。
 Soleilに牡丹を送り届けたナーヴェールは、引き留められるのを断って、元々の用事を済まそうと二区へ足を向けた。
 その途中、前方に先の男の姿を見つけ、ナーヴェールは素早く近くの物陰に飛び込んだ。
 男は他にもう一人、女と連れ立って歩いてくる。どうやら何か話をしているらしい。
「それで、ちょうど良く妹の方を見つけたのはいいんですが、一緒にいたガキに酷い目に合わされた」
(妹?)
 妹というのは牡丹のことだろう。とするとあの男は、牡丹の兄をどうかしようと言うのだろうか。
 話はなおも続いている。
「子供相手にやられてしまうだなんて、それでも『子供たち』の一人なの? この前の笛吹きにしたって、捕まえたのはいいけれど、顔を見られたのでしょう。全く、だからあなたは迂闊だと言うのに」
「すみません。でも今度は必ず――」
 言葉が途切れる。倒れる音と、微かな呻き声が、ナーヴェールの耳に届いた。
「今度、だなんて。二度失敗したら、三度だって失敗するんだから」
 氷のような女の声が聞こえてきた。
 ナーヴェールは息を殺して、その場にじっとしていた。
 女が通り過ぎてしまったのを確認して、ナーヴェールは慎重に隠れ場所から外に出た。
 そろそろと男に近付く。左胸に、銀の何かが突き立っている。よく見れば、それは鳥を象った柄のナイフらしかった。
 ナーヴェールは少しの間、じっとナイフを見つめていた。銀造りで、鳥の柄のナイフには、確かに見覚えがある気がした。
 ふん、と、ナーヴェールは足元の死体を見下ろして鼻を鳴らした。死体の腕には、先刻自分が付けた噛み跡が、まだくっきりと残っていた。
 自分の見ているものが死体だと分かってはいたが、ナーヴェールは祈ろうともしなかった。神など彼は知らなかったし、それを教えてくれる者もいなかった。
 やがて、自分の用事を思い出し、少年はくるりと踵を返し、二区の方へと駆け出した。それに合わせて、合羽の裾がマントのように翻る。
 二区に入ると、ナーヴェールは合羽の裾をたくし上げ、建物の陰に隠れるようにしながら進んでいった。
 二区はコンコルディアでも指折りの危険な地区。加えて今は、『災いの死神(メルム・モルス)』のトップ、マサムネが不在だと聞く。年相応に怖いもの知らずのナーヴェールだったが、雨で人気がないとは言え、二区を堂々と歩くほど、ナーヴェールは怖いもの知らずではない。
 幸い、目指す家は二区の端、三区よりの場所に建っている。物陰に隠れながら行けば、人に見つかる恐れも減る。
 目指す家の主人、ケイト・デールはナーヴェールの母、ニコラの古い知り合いだった。自然、ナーヴェールとも顔見知りだが、父親がいなくなってからは、手紙のやり取りをたまにする程度の付き合いになっていた。それはケイトがちょうど同じ頃に病に倒れたから、という理由もあった。
 家に着き、呼び鈴を鳴らす。しばらく戸口で待たされてから、ようやく玄関のドアが開く。
「あら、まあ。ナーヴェ。よく来てくれたねえ」
 病気がよほど重いのか、ケイトの姿はナーヴェールが覚えているよりもやつれていた。
「これ、母さんから預かった」
 湿った手紙を渡す。
「ありがとうね。そんなに濡れて、寒いでしょう。温かいお茶でも飲んでいく?」
「んや、買い物もあるからいいよ。おばちゃん、また母さんに会いに来てくれよ」
「そうだねえ。もう少し暖かくなったら、また行かせてもらおうか。……あら、怪我をしてるじゃないの。お入んなさいな」
 もうだいぶ暖かくなってきたとはいえ、ケイトの家の中ではまだ暖炉に火が入っていた。
 タオルを借りて濡れた髪を拭き、殴られたところに薬を塗ってもらう。独特の匂いが鼻をついた。
 服を乾かして行けと勧められ、暖炉の側に座る。
「ニコラは元気かい?」
「元気だよ」
「最近どうしてるんだい?」
「最近……相変わらず、エルにべったりだよ」
「あぁ……。ねえ、今のままじゃ良くないと思うんだけどね」
「いいんだよ。あれで。だって母さん、笑ってるし。そんじゃ俺、買い物あるから。元気でな、おばちゃん。薬、ありがとう」
 だいたい乾いた服の上から合羽を羽織り、裾を結んでケイトの家を出る。
 後は買い物を済ませるだけだが、ナーヴェールにはもう一つ気になることがあった。
 あの男は、牡丹を誰かの妹だと知っていて、手を出そうとした。
 わざわざ牡丹を狙うくらいだ。良くない目的があるのだろうというくらいのことは、ナーヴェールにも予想がついた。
 できるならば知らせてやりたいが、ナーヴェールは牡丹の兄の顔を知らない。三区で牡丹に似た人間を見たこともない。
(どうやって伝えりゃいいんだよ)
 むむ、と唇を尖らせ、ナーヴェールは難しい顔で考え込んだ。




 ドアベルの音を聞きつけて、ギムレットの店主、ジンはいらっしゃい、と言葉を投げかけた。
 禿頭片目の男が、どこか暗い面持ちで入って来る。カウンター席に座り、酒を頼む男――オレクロウは、誰かを探しているかのようにきょろきょろと辺りを見回していた。
「誰か探してるのか?」
「ああ。あの流しの笛吹き、今日も来てないのかと思ってな」
「ん? 笛吹きっていうと、ユリンちゃんか。そういや先週来たっきりだな。そろそろ顔を見せてもいいようなもんだけどな」
「……なあ、マスターはここ、長いんだよな。だったら……『デールの子供たち』って知ってるか?」
 抑えた声で話された内容を聞き取り、ジンは酒瓶を手にしたまま、腕を組んで考える。
「そういえば、そんな名前の団体が、三区で活動しているとか、前に聞いたな。でも相当前……ゼロが帰ってくる前に、潰れたとか聞いたけどな」
「潰れていなかった、としたら?」
 続いたオレクロウの言葉に、ジンが眉を上げる。
「何?」
「このところ、四区を出た異能者がいなくなっている。オレが知るだけで三人。ユリンも合わせたら、これで四人だ。……だが、もっと多い可能性もある」
 『狂気の涙』の残党かとも思われたが、どうもそうではないらしい。四区から出た、若い異能者が行方不明になっている。特に誰を、というのではなく、無差別にさらっているらしい。
 そう聞いて、ジンはふと眉を寄せた。
 元々異能者の集まりだからと、そしられることも多い四区は、『過剰防衛』で知られる。四区に直接仕掛けてこないのは、それを恐れてのこととも思われるが、聞き書きではどうも埒が明かない。
「それと最近、『カリブンクルス』という酒が出回っているらしい。知らないか?」
「『カリブンクルス』? いや、知らねえな」
 そうか、とがっかりした様子で、オレクロウが肩を落とす。
「まあ、詳しく話してみろって。どんな酒なんだ、それは」
「三区で出回っている酒で、『楽園』に行く資格のある人間だけ飲めるらしい。聞いた奴も話に聞いただけで見たことはないというから、聞きに来たんだが……」
 オレクロウは言葉を途切れさせ、目の前の酒を一息に呷って息を吐いた。
「『デールの子供たち』についての調査を、ギムレットに依頼したい。失踪事件には、間違いなく彼らが絡んでいるはずだ」
「ああ。どのみち『家族』に手を出すってんなら、百回刻んで晒してやらねえとな」
 瞬間、少年の顔の下から、老獪な主人の顔が覗いたように思われた。

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