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Carbunculus 3 黒と赤

 スズナの朝は早い。薄暗いうちに起き出して、売るための野菜を収穫するために畑に出る。
 ある程度収穫すると家に戻り、売るのにちょうどいい大きさのものを選り出して、籠に入れる。形の歪なものや、売るのに向かなそうな大きさのものは、今日のおかずにしようかと、横に置いておく。
 売り物を、重さが均等になるように籠に入れ、竿を肩に乗せる。見た目は重そうだが、実のところはさほどでもない。
 それでもいつもより、肩に重みがかかる気がするのは気のせいだろうか。
 そう思いながらも、実のところ、その理由は分かっていた。
 数日前、黒鳥居に届いた依頼。
『ナーヴェールの命が欲しい』
 ナーヴェール。その浮浪児の少年とは、スズナも面識があった。何度か野菜を買いに来た彼と、顔を合わせたことがある。だが例え顔見知りでなかったとしても、スズナには人を殺すことはできない。
 重い溜息を落としたスズナは、軽く頭を振って家を出た。
 スズナが野菜を売る場所は、特にどことは決まっていない。昼頃まで、大通りの適当な場所で野菜を売っている。
「すみません。そちらの野菜を頂けますか」
 黒いワンピースに飾りのない付け襟をし、大きなリュックサックを背負った女がスズナに声をかけた。人間のものとは思えない、酷く平坦な声だった。
 その顔も整ってはいたが、声と同じく、その顔にもおよそ表情らしきものはなかった。
 閉まりきっていないリュックからは、バゲットが二本、角のように飛び出している。
 スズナが売っていた野菜のほとんどを買ってしまうと、女はリュックにそれらを詰め込み始めた。
「毎度ありがとうございます」
 にっこりと笑ったスズナに、女も頭を下げ、膨れたリュックを背に道を行く。
 そのときだった。路地の陰から出てきた男が、女に突き当たる。
 文句を言い始めた男に、女は頭を下げ、謝っているようだった。しかし男はそれで矛を収める様子もなく、女の腕を掴む。女もそれに抵抗し、男を振り払おうとする。
 二人がもみ合い、それでも男の腕力には敵わず、女の姿が路地へと消えようとした瞬間、呻き声と共に、男がその場に倒れた。
 その胸には、銀のナイフが深々と突き立っていた。
「大丈夫かい?」
 近くの店の店主に声をかけられ、女は、はい、と頷く。
「すみませんが、『蟲屋』というお店はどちらでしょうか」
「蟲屋? あぁ、ならそこの道を右に行ったらあるよ」
「ありがとうございます。助かります」
 丁寧な口調で礼を述べ、女は言われた方向に歩いて行った。
 蟲屋のドアの前に立ち止まり、女は少しの間、ガラス越しに中を見ていた。
 ドアを押して中に入る。店主、レディバードがそれを見て女に声をかけた。
「いらっしゃい」
 棚から蜂蜜を一瓶、手に取った女がカウンターに近付く。
「こちらを頂けますか」
 そう言って、女は懐から、畳まれた紙を取り出した。そこには蟲屋で扱っているいくつかの漢方薬の名と必要な数が書かれ、一番下に『Stinger』と書かれていた。
「これ全部? 悪いけど、少し時間がかかるよ」
「構いません。まだ寄るところがありますので、夕方にまた、こちらに寄らせていただきます。そのときには、揃っていますか」
「うん。夕方なら大丈夫だ」
「助かります」
 それでは、と女が蟲屋を出て行く。残されたメモを見ながら、レディバードは棚から数種類の虫を選び出した。
 蟲屋を出た女が足を向けたのは、スウィートリートの一角に建つ店、『Dare’s Oven』。
 ドアを潜ると、カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
 せ、を言う前に、カウンターに立っていたエリスは言葉を途切れさせた。その顔は一瞬で血の気が引き、目が大きく見開かれる。
「久しぶり。エリス・デア」
「……ファン?」
 恐る恐る、といった様子で、エリスが呼びかける。ファン、と呼ばれた女は、こっくりと頷いて見せた。
「あら、お友達?」
「うん。母さん、ちょっと出てくるね。すぐ戻るから!」
 母親の答えも聞かず、エリスはエプロンを着けたまま、ファンの腕を取って走り出た。
「どういうつもり!」
 人のいない路地裏で、エリスはファンをほとんど壁に押し付けんばかりの勢いで詰め寄った。ファンは青い、硝子のような目でエリスを見返す。
「エリス。マダムが待ってるよ。もう来ないの?」
「アタシはもうそっちと関わりたくないの。二度と顔を見せないで」
「どうして? 同じ“子供達”……“姉妹”でしょう? 私達は」
「アタシはもう卒業したの。もう"駒"じゃないの。ファンだってそうでしょ?」
「私はいつまでも”子供達”だから。……ねえ、エリス。戻っておいでよ、こっち側に」
 甘い響きで誘う声。エリスは掴んでいたファンの腕を離し、一歩後ずさった。
「アタシは戻らない」
 そう言う声は震えていた。くるりと踵を返し、エリスがその場から走り去る。ファンはその姿が消えるまで、小首を傾げて見送っていた。
 夕方、ファンは再び蟲屋を訪れていた。頼んでいた薬が全てあることを確認し、膨らんだリュックサックに紙袋を押し込む。
「また近いうちに同じものを買いに来ると思うのですが、頼んでもよろしいでしょうか」
「もちろん。何なら用意しておくよ」
「それでは今日頼んだものと同じものを、同じ数だけ。来週の終わりか……遅くとも再来週の頭には、また伺います」
「わかった。ご贔屓にどうも」
 レディバードに深く頭を下げ、女は重そうなリュックを背負っているにも関わらず、ぴんと背を伸ばして蟲屋のドアを潜って出て行った。



 同じ日の昼、蜜と牡丹は三区の大通りを歩いていた。人の多い道を避けながら、牡丹の手を引いて歩いていると、不意に声がかけられる。
「少し、よろしいですか?」
 足を止めて振り返る。声の主は、何やら大きな袋を持った、白に近い金髪の青年だった。口調は穏やかなものの、少し細められたライトグリーンの瞳に浮かぶ、獲物を見つけた鷹のような色に気付き、蜜はさりげなく、牡丹を男の視線から隠すように立ち位置を変えた。
「何か?」
「一つ、伺いたいことがございまして。『楽園』に興味はおありですか?」
「いいや」
 一瞬の迷いもなく、蜜は答えた。男は一瞬虚を突かれたような顔になったが、すぐににっこりと笑顔を浮かべた。
「そうですか。……お嬢さんはどうですか?」
 だが牡丹は、男の視線から逃れるように蜜の背後に隠れ、彼の着物をぎゅっと握っていた。
 口の端に薄く苦笑を浮かべ、蜜は牡丹を抱き上げる。
「悪いが、これ以上用がないなら、これで失礼する」
「ええ。こちらこそ、呼び止めてしまいまして。ですが気が変わったら、いつでも家を訪ねてきてください。二区で、『烏の子』と言えば分かりますから」
 やはり口元にだけ笑みを浮かべたまま、青年は去って行った。一歩ごとに、持っていた袋から、硝子の触れ合う音が聞こえていた。
 その様子を、蜜は不審に思いつつも、牡丹を抱いたまま歩みを進める。
 青年に見覚えはなかったが、彼の様子には気にかかるところがあった。もしかしたら、自分に何かしらの恨みを持つ人間だろうか。
 だがその割には、あの場で何もしなかったことがおかしい。
 内心で考える蜜の腕の中で、牡丹が顔を輝かせて一点を指差した。それに気付き、指の先を目で辿る。
 牡丹が指差した先では、空になった籠を、スズナが片付けていることろだった。
『鈴ちゃん!』
 地面に降りて駆け寄った牡丹に気付き、スズナも笑みを返す。
 三人で少し遅めの昼食を取り、夕方、牡丹をSoleilまで送り届けた後、蜜は四区の自宅に戻った。
 墓場に行くと、珍しく、墓地には人影があった。禿頭片目の男――オレクロウ。蜜は彼とは話したことこそないが、ギムレットで何度か見かけたことがあり、顔だけは知っていた。
 オレクロウは何かを確かめるように、墓石の間を歩いている。よく見れば、墓石の数を数えているらしかった。
 一通り数え終わると、オレクロウは何か呟きながら墓地を後にした。
 日がすっかり落ちてしまうと、蜜も墓地を出た。向かうのはギムレット。空いている席に座り、酒を頼む。
 そのうちに、ユリンが流しに訪れて、客からリクエストを聞きながら笛を吹く。よくある夜の一コマだった。それが崩れることなど、誰が予想しただろうか。
 それから三日経った昼下がり。オレクロウはどこかへ行くらしいユリンと出会った。同じ四区に住んではいたが、二人がギムレット以外で顔を合わせるのは珍しかった。
「どこか行くのか?」
「ええ、三区まで買い物に」
 そう言ってから、ユリンは何かに気付いたらしく、言葉を付け足した。
「日のあるうちに戻ってきますよ。そうだ、何なら今日、ギムレットに行きましょうか」
「そうしてくれ。今は物騒だ。ここ以外では、何があるか分からん」
 物騒なのは今だけではなく、何があるか分からないのは四区も同じだが、オレクロウはとにかくそう言った。
 じゃあ今夜、と笑うユリンを見送りつつ、オレクロウは酷く胸騒ぎを感じていた。
 その胸騒ぎが杞憂でないことが分かったのは、その日の夜のことだった。
 ユリンはギムレットに現れなかった。翌日も、その翌日も、ユリンがギムレットに姿を現すことはなかった。

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