Carbunculus 2 鴉の先触れ
――あの人がおかしくなったのは、いつからだっけ?
――忘れたよ。
――ウソだね。忘れるわけないじゃないか。
――…………。
――ほんとは覚えてるだろ?
――うるっさいなあ。そうだよ、覚えてるよ。
――じゃあ答えてよ。いつから? いつからあの人は、『あの人』になったの? キミの、『オカアサン』は?
――あの子が生まれてからだよ。
――あの子? あの子って?
――だれだっていいだろ。ほっといてくれよ。
どす、と、腹に衝撃。妙な声を上げつつ目を開けたナーヴェールは、ひょい、とそれを抱き上げた。
「何だよ、起こすなよ、もう」
にゃー、と鳴き声を返すのは、この辺りで姿を見る、白と黒のブチ模様の猫。
ナーヴェールが寝ていたのは三区の路地裏。人も来ない、ただ崩れた瓦礫やゴミが散乱しているような場所だ。
何もこんな場所で寝なくとも、家はあるのだが、この少年はそこで寝ることはあまりなかった。
あそこに帰れば”あの人”の気に障ることの無いよう、息さえも潜めていなければならない。そんな窮屈な思いをするよりも、外にいる方が好きなのだ。
辺りは既に薄暗く、今ナーヴェールがいる路地裏も、目を凝らさなければものが良く見えない。
瓦礫の上から起き上がったナーヴェールは、軽く頭を振って髪の埃を落としてから、通りに向かって駆け出した。
馴染みのパン屋で安い丸パンを一つ買い、まだ温かなそれにさっそくかじりつく。
もぐもぐと口を動かしながら通りを歩く。
「ちょっと、そこのボク」
声をかけられて足を止める。声の方に顔を向けると、毛先を赤く染めた黒髪の女が、ナーヴェールに向けて手を振っていた。
「ボク、暇だったりする?」
「暇だけど、何?」
「ちょっと、手伝ってくれないかな? お小遣いあげるからさ」
「いくら?」
女はポケットから数枚の硬貨を取り出して、ナーヴェールの掌に落とした。硬貨を数え、頷いて見せる。
「何すりゃいいわけ?」
「四区にオレクロウって男が住んでるの。その男にこれ渡して、『いつものところで待ってる』って伝えてほしいんだ」
渡された紙片を、オーバーオールのポケットにしまいつつ、ナーヴェールは疑問を口にした。
「俺、その人のこと知らないんだけど」
「ああ、そうだね。エリスからの使いだって言えばいいよ。アタシはアナグマキッチンで待ってるから。オレクロウは多分、ギムレットって酒場にいると思うよ。オレクロウは坊主頭で眼帯つけてるからね、見たらすぐに分かると思うよ」
「よし、引き受けた!」
少年は、四区へ向かって駆けて行く。
『愚か者達(ストゥルティ)』に統括される地上第四区は、コンコルディアの四区域で、最も狭い区域だ。しかし区が持つ危険性は、他の区に劣らず高い。
特に、ここの住民は多くが異能を持っている。これは他の区には見られない特徴であり、四区の危険性を増している一因とも言える。
四区に入ったナーヴェールは、不審に思われない程度に辺りを見回しながら、ギムレットを探していた。
ギムレットを見つけるのはさほど難しいことでもなかった。中に入ろうとしたとき、後ろから声がかけられる。
「あれ、ナーヴェ? どうしたの、こんなとこで」
ひょいと振り返ってみると、赤い髪を風に吹かせ、ユリンが小首を傾げて立っていた。手に笛を持っているところを見ると、流しのために来たのだろう。
ちょうど良かったと、ナーヴェールはユリンに事情を話した。
「呼んでこようか?」
「うん」
ユリンはギムレットに入り、少し経ってから一人の男を連れて出てきた。エリスの言っていた通り、坊主頭で右目に黒い眼帯を着けた男だった。
「坊主、俺に用だって?」
「うん。エリスが『いつものところで待ってる』ってさ」
「それだけか?」
「そうだよ。俺ちゃんと伝えたかんね」
「ああ。坊主、お前はどこの区だ?」
「三区だけど?」
「そうか。気を付けてな」
来た道を戻る少年を、片目をすがめて見つつ、オレクロウは小さく溜息を吐いた。
「あの子の区がどうかしたんですか?」
「知らないのか? このところ、また異能者がいなくなってるんだぞ」
「またですか?」
ユリンが眉を上げる。
『狂気の涙』、ひょんなことからユリンも関わることになった神堕としの騒ぎ、それに以前囁かれていた奴隷商人の噂と、流石荒廃都市と言うべきか、物騒な話題には事欠かない。
しかしオレクロウが語ったことは、それらとは少し毛色が違っていた。
何でも、『四区の外に出た異能者』が、いなくなってしまうらしい。
彼の知り合いも、三区に行ったきりもう二週間、何の音沙汰もないと言う。不審に思って調べ始め、どうやら四区から出た異能者が狙われているらしいと気が付いた。
そして四区から出ている者が皆狙われるのかと言えばそういうこともなく、これまでいなくなったのは、その多くが若い人間だという。
四区に直接来ないのは、『過剰防衛』を恐れてのことか。
「うわあ……あたしも気を付けないと」
「そうだな。しばらくは四区を出ない方がいいんじゃないか」
そうですね、と頷き、ユリンは仕事のためにギムレットの中に戻って行った。
その日の深夜、切れかけの蛍光灯が明滅する地下東区に、エリスの姿があった。傍らに置いたカンテラの灯りが、彼女の右半身をぼんやりと照らし出している。
エリスは、かつてはレジカウンターだったものに腰を掛け、足をぶらつかせながら、片手でコインを弾き上げては受け止め、また弾き上げることを繰り返していた。
カタリ、と入口で音がする。目を上げたエリスは、さっと弾き上げたコインを掴み、入ってきたオレクロウに問いかけた。
「右か左、どっち?」
オレクロウは、エリスがコインを掴んだ瞬間を見ていない。とはいえ確率は二分の一。当てずっぽうでも当たらなくはないが。
「右」
オレクロウの言葉には確信の響きがあった。まるで答えをあらかじめ知っているかのように。
エリスが右手を開け、握っていたコインを弾いて渡す。オレクロウは飛んできたそれを受け止め、エリスに近付くとその手にコインを落とした。
「流石だね。それより、話したいことって何?」
「ああ、その話か。エリス、『デールの子供たち』って知ってるか?」
その言葉を聞いた瞬間、エリスの表情が変わった。恐怖と驚愕とが混ざりあったような表情だった。辺りは充分に明るいとは言えないものの、カンテラと、オレクロウの手に持つ小さなライターの灯りでも、それははっきりと分かった。
「う、ううん、知らない」
「本当に?」
「……本当、だよ。そうだ、四区で『カリブンクルス』ってお酒、流れてない?」
「『カリブンクルス』? いや。その酒がどうかしたのか?」
「最近、三区でそのお酒が流れてるらしいんだよね。何でも、『楽園』に行く資格のある人だけ飲める、とか何とか。アタシは見たことないけど」
「だが、たかが酒だろう? それとこれと何の関係が――」
ふと、オレクロウが言葉を途切れさす。ぶつぶつと口の中で呟きながら、時に頷き、時に首を振る。
「オレクロウ」
男の様子を、さして驚くでもなく眺めていたエリスは、彼に一言声をかけた。
「人がいなくなってることと、カリブンクルス、関係ある?」
「分からない」
「あー……、じゃあ、アンタの言ってた『知り合いの人がいなくなったこと』と、『カリブンクルス』に関係はある?」
「……ある」
何の根拠もないと思える言葉だが、二人には充分な一言だった。
オレクロウの持つ異能、《二つから一つ(セレクト・ワン)》。『答えが二択』なら、必ず正しいものを当てることができる。
選択肢は確実に二択でなければならず、尋ね方によっては――例えばエリスの初めの問いのように、漠然としたことを尋ねた場合は――二択であっても答えは得られないなど、制約が多い異能だが、確実に二択でさえあれば、必ず正しい答えを選ぶことができる。
「それじゃ、アタシはそろそろ帰るね。明日はお店、忙しくなりそうだし」
そそくさと、エリスがその場を立ち去る。オレクロウは眉を潜めてそれを見ていたが、しばらくして、仕方ない、と言いたげに肩を竦めた。
「嘘が下手なやつだ。異能を使わなくても、何か知ってることは分かったが……まあ、黙っておくか。このまま手を引かないなら、いずれは話すことになるだろうさ」