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Carbunculus 1 楽園への扉

 女が道を歩いている。波打つ亜麻色の髪と、緑の瞳。腕には赤子を抱いて。
 女がいるのはコンコルディア、その三区。商業地区故に、道の左右にはそれぞれに飾られたショー・ウィンドウが並んでいる。
 過日の虐殺も、この辺りでは、さほど大きなものにはならなかったらしく、周囲の様子は騒ぎが始まる前とそう大きくは変わらない。
 あちらには秋物の服、こちらにはアクセサリー、その隣には冬のコート、向かい側には雑貨と、目移りしそうなほどに様々な種類の商品が飾られている。
「あら、ねえ、エルヴィール。きれいな帽子よ。この色、きっと似合うわ」
 女が足を止めたのは、一軒の手芸店の前。窓辺には秋を思わせる暖色の毛糸が入ったバスケットと、その毛糸で編まれたのだろう、模様の入った帽子が飾られている。
 よしよしと、腕の中の赤子をあやしながら、女は店へと入った。レジにいた店員は、母子を見て、愛想笑いを一瞬引きつらせた。
「い、いらっしゃいませ」
「ねえ、あそこの窓にあったのと、同じ毛糸を頂ける?」
「かしこまりました。おいくつご入用でしょうか?」
「一つ……いえ、二つ、頂戴な」
 はい、と店員が毛糸を取りに行く。
「帰ったら、早速帽子を編んであげましょうねえ」
 にっこりと、母親は赤子に笑いかける。赤子は緑の目をぱっちりと開いたまま、大人しく女に目を向けている。
 赤子でも、笑いかければにこにこしそうなものだが、この赤子は表情を変えることはない。
 毛糸玉の入った袋を下げて、女は道を行く。
 その途中。
「可愛らしいお子さんですね」
 かけられた声に、女は足を止めて振り返る。白と見紛うほど色の薄い金の髪の青年が、微笑んで立っていた。最もその笑みは、ただ口元だけのもので、ライトグリーンの瞳には、獲物を見つけた鷹のような光があった。
 女はそれに気付く様子もなく、どこか濁った緑の目を細めて笑った。
「ありがとう。自慢の娘なの」
「ええ、ええ、分かりますとも。ときに、あなたは『楽園』に興味はありますか?」
「『楽園』?」
 青年が女と目を合わせる。
「どんな望みも叶う場所。約束の地。あなたには、そこに行く資格がある」
「あら……この子も行けるかしら? とってもいい子、なんだけれど」
 青年の顔が少し曇る。
「今は、まだ。もし、その子も連れて行きたいのなら、その子に魂を入れなければならない」
 その言葉に、女が少しむっとしたように青年を見返した。
「この子はちゃんと生きていてよ。とても大人しい子なのよ」
「失礼。とにかく、その子にはまだ資格はない。連れて行きたいのなら、資格を持たせなければならない」
「どうやって?」
 女の耳元に、青年が囁く。
「そう……それでいいの?」
「ええ。それから、これを。日に一度は、必ず飲んで」
 真紅の液体が入った、一本の瓶が差し出される。くすんだラベルに書かれた文字は《Carbunculus》。
「では。あなた達と『楽園』で会うことを祈っていますよ」
 ふっと笑って青年が去る。女も荷物と赤子を抱え、三区の貧民街へと歩いて行った。その一角に建つ、半分崩れた家の前で止まる。
 たてつけの悪いドアを開けると、ちょうど外に出ようとしたらしい、亜麻色の髪の少年が驚いた顔で女を見上げた。
 少年は慌てて壁際に飛びのき、女はそんな少年に何か声をかけるでもなく、傍を通り抜けて二階へと上がっていく。
「あー、びっくりした。あの人が出かけるなんて、明日は雨かー?」
 女の姿が見えなくなってから、少年――ナーヴェールは抑えた声で呟いた。小さく息を吐き、外へと駆けていく。
 一方、女は傾いた、埃だらけの机に向かい、何かを紙に書き込んでいた。
「エルヴィール、ちょっと出て来るから、いい子にしていてね」
 紙と数枚のコインを手に、階下に降りる。閉まっている奥部屋のドアをノックすると、ややあって中から応えがあった。
「よろしくて?」
「はい。何かありましたか、ニコラさん」
 中からアツヤが姿を見せる。
「私、少し用があって、出かけなくてはいけないんです。すぐに戻りますから、エルを見ていていただけません?」
「エル……ああ、娘さん、を? 分かりました」
 ふふ、と笑ってニコラが出て行くのを見送った後、アツヤはゆっくりと二階へ向かった。軋む階段に冷や汗をかきながら上りきり、二階に一つしかないドアを開ける。
「う……」
 開けた瞬間に、目に飛び込んできたのは様々な種類の酒瓶。そして酒の臭い。辛うじて動線は確保されているらしいが、それでも壁側には物が積みあがっている。
 その只中に、一度壊れたものを無理に直したような揺り籠があり、そこに、エルヴィールと呼ばれる赤子が寝かされている。
「世話になっている身としては何も言えないが……やっぱりどこかおかしいんじゃないのか」
 口の中で呟く。エルヴィール、と呼んでみても、赤子は反応を見せない。
 それもそのはず。
 滑らかで固い、陶器の肌。何も映さない、色硝子の目。繊維でできた、伸びない髪。揺り籠に寝ているのは人の子ではなく、赤子を象った人形だった。
 それでもこの赤子人形は、ニコラにとっては可愛い娘だと、ナーヴェールは以前アツヤに語った。こうなった理由は、語ろうとしなかったが。
 しばらくして、足音が近付き、ドアが開く。
「ありがとう。エルヴィール、いい子にしていた?」
「……ええ。とてもいい子でしたよ」
 曖昧に笑って、アツヤは入れ替わりに部屋を出た。


 翌日の夕方。スズナは地下東区を訪れていた。依頼を受けるために設置した黒鳥居に向かって歩みを進める。
(今日は何か依頼があるでござろうか?)
 常人ならば灯りがいるほどの暗さだが、スズナにとっては問題ではなく、昼日中の道を歩くのと変わらぬ速さで歩いて行く。
 やがて、見慣れた黒鳥居が見えてきた。その前には、何かが包まれた紙がある。
 久しぶりの依頼に、内心胸を高鳴らせつつ、スズナは紙を懐にしまいこんだ。
 家に帰り、包みを開く。中には糸で封じられた包みと、畳まれた紙が一枚。
「さて、依頼は……っ!?」
 開いた紙には、歪んだ文字で一文。
『ナーヴェールの命が欲しい』


――その誘いは、天使の言葉か、悪魔の囁きか。
――『楽園』への扉は開かれた。

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