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花の祈りを現世へ

 男――クライスには娘がいた。『スリジエ』。『桜』の名を持つその娘を産んで間もなく妻は世を去り、それ以来、男は一人で娘を育ててきた。
 妻の死を、娘のせいにしても不思議はなかったのに、クライスはそれをせず、娘に愛情を注ぎ続けた。毎日、成長をノートに書きつづった。
 だが、スリジエはあるとき、重い病にかかった。薬代を得るために、クライスは必死で働いた。その甲斐あってか、スリジエは余命三ヶ月と言われたところを、更に三ヶ月長く生きることができた。
 娘を葬り、孤独に日々を送っていたクライスはあるとき気が付いた。自分が、娘の声を思い出せなくなっているということに。
 彼はそれに気付いたとき、娘が死んだときよりも深く絶望した。そして、娘を忘れ去ることを恐れ、望んだ。
『桜(スリジエ)』を忘れないように。
「そうしたら、あるとき、あの子の全てが思い出せるようになった。そして、娘が私の前に現れたんだ」
 それは奇跡か、それとも偶然か。娘の記憶は甦った。現身(うつしみ)を伴って。
 赤いケープ、緑のワンピース、白いレースの靴下と、茶色い革の靴。捨てるのが忍びなくて、取っておいたお気に入りの服を身に着けた、スリジエが。
「あ、そっか。あれ、樟脳(しょうのう)の匂いだったんだ」
 ぽん、と手を打って、ユリンが何か納得したように頷く。少女が発していた匂いの一つ、鼻を刺す刺激臭は、衣服の防虫剤として使われる、樟脳の匂いだったのだ。
 樟脳は、かつてユリンがいた妓楼でも、衣服を虫に食われない用心に使われていた。ユリンにとってはなじみ深いものであり、そして過去との縁(よすが)でもある。
「スリジエが戻って来て、私はあの子を忘れる恐れはなくなった。だが……あの子は、前とは違っていた」
 スリジエの肉体は虚ろだった。彼女は、身体を保つために、他者を必要とした。
『桜(スリジエ)』に縁のある者を。
 クライスがそれに気付いたのは、ひと月前のことだった。家に友達を読んで遊んでいたスリジエが、突然静かになった。それまでぱたぱたと、足音や物音、楽しげな声が聞こえていただけに、クライスはどうかしたのかと部屋を覗き――二度目の絶望を味わった。
 床に広がる赤。転がる骸は、スリジエが呼んだ友人。その身体には、点々と噛み跡があって、こちらを向いたスリジエの口が、赤く濡れているのを見て、クライスは取り返しのつかないことになったことを悟った。
 スリジエはスリジエではない。いてはならないモノだ。
 だがクライスは、スリジエを地下に閉じこめたものの、どうしてもスリジエに手を下すことができなかった。スリジエに手を下し、娘の記憶が失われることを恐れた。
 クライスが煩悶している間に、スリジエはどうしたのか閉じこめていた地下を抜け出し、二人目の犠牲者を見つけ出した。
 話を聞いたユリンが、黙って顔を曇らせる。
「ん? でもユリン、スリジエのことは知らないんだよな?」
 確かにユリンはさっき、スリジエを『知らない子』と言っていた、と思い出し、ソワイエがユリンに訊ねる。それを聞いたクライスの顔が、はっと凍りついた。
 まさか見知らぬ人間を襲うようになったのか、と、その顔に書かれている。
「うん、スリジエのことは知らないよ。でも、『桜』の名前を持ってる人を、あたしも別に知ってるから、そのせいじゃないかな」
 スリジエとカグノ。『桜』を名に持つ、その一事が、『桜』と縁のある人間として、ユリンをスリジエに引き付けた。
「ああ、それならなおのこと……あの子はいてはならない」
「おい――」
 ソワイエが口を開きかけたとき、異様な音がした。軋みをあげてドアが開く。
 鈍い、肉を貫く音。クライスの左肩を、どこにあったのか、大振りのナイフが貫いていた。
 顔を歪め、スリジエ、と呼ぶ父親の横を通り抜けて、少女が部屋に入って来た。小さな手から、ねじ切られたドアノブが床に落ちる。
 昏い琥珀色の目は、じっとユリンに向けられていた。
「おねえちゃん」
 ユリンをそう呼ぶ少女から、ソワイエははっきりと死臭を嗅ぎとっていた。
「やめなさい、スリジエ!」
「スリジエね、おねえちゃんがほしいの。だから、こっちにきてよ」
 クライスの言葉を意に介さず、スリジエはユリンへと歩み寄る。
 甘い匂い。桜の香の匂い。ユリンひとりが感じるそれは、じわりと身体にしみこんで、感覚を奪いさろうとする。
 視界が暗くなる。夜にも似た闇の中、桜の花弁がひらひらと舞い散る。
 縫い止められたように、不自然に動きを止めたユリンは、その目をスリジエに向ける。
 とっさにソワイエは、ユリンの肩をしっかりと掴んだ。
「しっかりしろ! ユリン!」
 動かないユリンの耳元で怒鳴る。
 ユリンはそれでも動かない。動けない。
 視界に散る夜桜に紛れて、佇む人影。黒い髪を風に吹かせ、立つ人影が振り返る。
――来たら、あかんよ。
 ソワイエとユリンの間で、パン、と乾いた音が鳴る。頬に走った痛みで、ユリンは現実に引き戻される。
「ユリン!」
「うん、何とか大丈夫。……あのさ、お嬢ちゃん。あたしはまだ、そっちには行けないんだ」
 目に光を取り戻し、ユリンがきっぱりと言い切る。
 その拒絶に戸惑ったように、スリジエが小首をかしげる。瞬間、横から伸びてきた腕が、スリジエを抱きこんだ。
「行ってくれ。早く。私は親として、いや、一人の人間として、自分が引き起こしたことの責任を取らなければならない」
 クライスの手には、自分の血で濡れたナイフが握られていた。
「行け! 行ってくれ! 早く!」
「でも――」
「これでいいんだ。行け!」
「ユリン!」
 クライスの顔を、その目に宿る決意を見て、ソワイエがユリンの腕を引く。
 二人が駆け去ったあと、残されたクライスは、スリジエを許される限り強く抱いていた。
ずるりと横ざまに倒れ、それでも腕は離さずに。
 血の臭いが鼻をつく。もう、そう長いことはないだろう。出血が、あまりにひどすぎた。
「パパ、ねえ、ねむいの? いっしょにねようよ」
「ああ」
 そう、初めからこうしていれば良かったのだ。だがこれで、もう誰も、犠牲にせずにすむ。
 抱きしめた娘の身体が、少しずつ冷たくなっていく。それを感じながら、クライスは目を閉じた。

 外に出ると、陽光が眩しく二人の目を刺した。薄暗い地下にいたせいで、余計に外が眩しい。
「あの人は――」
「責任を取る気なんだろ。親として」
 ユリンの呟きに、ソワイエが答える。
 子のしたことの責もまた、親が負わねばならないものだ。クライスはそれを負うことを選んだ。その思いは、ソワイエには伝わった。
「親、ね……」
 ユリンはなおも苦い顔を崩さない。もっとも、その苦々しさは、クライスに向けたものではなく。
 ふうっと一つ息を吐き、らしくないと頭を振る。
「迷惑かけちゃってごめんね。お詫びに何かおごるよ」
「おう、ってか、顔、大丈夫か? 結構腫れちまったけど……」
 言われて頬に手をやる。触れると、じん、と熱を持っていた。
「うん、これくらいなら平気平気」
 笑みを作る。それを見て、ソワイエはそうか、と安心したらしかった。
 その夜、流しを早めに切り上げて、自室に戻って来たユリンは、寝間着に着替えもせず、着のみ着のままでベッドに横になった。
 昼は楽しかった。お詫びにと、ソワイエとスリールに昼食をおごって、アナグマキッチンで食事をした。
 それから夜にはいつもの通り流しをして、お金も弾んでもらえたし、自分も楽しかった。
 それでも、一人になると、あの父親を思い出す。
 娘を忘れることを恐れた父親。その気持ちは、ユリンも分かる。自分も、大事な人を喪ったから。
 だが、自分の娘でないモノを、自分の娘だと、責を負ったのはどうしても分からない。
(親、って、そういうもの、なのかな)
 ユリンの記憶にある『親』は、母親だけで、加えて彼女は、母から愛されていたと思ったことはない。母とは言え、名を付けるのも面倒がり、気が向いたときだけ、子供が人形で遊ぶように、ユリンの相手をしていた母は、ユリンにとって親ではなかった。
 重く溜息をついて、ユリンはベッドに埋もれるように潜って目を閉じた。

 ひらり、と、どこからか、薄桃色の花びらが風に乗って、その枕元にそっと舞い落ちた。
 

インフア

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