top of page

甘い一時、その後で

 ナーヴェールが貧民街の家に帰ったのは、大分夜も更けてからのことだった。家に帰ってきたのは、二週間ぶり、くらいだろうか。
 スウィートリートでたっぷりと貰ってきた菓子は、帰って来るまでの道のりでほとんど食べてしまっていたけれど、まだ少しポケットに残っている。
 一階の奥、建付けの悪い扉を開けて居間を覗く。長椅子の前のテーブルに置かれていたランプが、薄明るく周囲を照らしている。
 扉の軋む音に目を覚まされたのか、長椅子の上で眠っていた男が身じろいで上体を起こした。
「……お前か」
「うわ、まだ起きてたのか?」
「起こされたんだ」
 不機嫌そうに少年に言葉を返す男――アツヤ。
 猫のように静かに部屋を横切り、ナーヴェールはアツヤの手の中に、オーバーオールのポケットから引っ張り出したチョコレートをいくつか落とした。
「これ、やる」
「……菓子ばかりじゃないか」
「食えるだけましだろ? いらないなら俺が食べる」
 一つ息を吐いたアツヤは、いるともいらないとも言わずに、掌に載せられたチョコレートを眺めていた。
 どのチョコレートも包装はされているが、どれもごく簡単なもので、包装の仕方や紙自体もばらばらだ。加えていくつかの店のものが混ざっている。
 しばらくチョコレートを眺めてから、ようやくアツヤは今日――二月十四日――が何の日だったかということに思い至った。
 そこから察するに、このチョコレートは、少年がわざわざ買いに行ったか、あるいは店で配っていた試食品か何かだろうか。
 一旦渡されたチョコレートをテーブルに置き、適当に一つ摘まみ上げる。ナーヴェールもポケットに手を突っ込み、中のものを取り出そうとしたときだった。
「っと」
 軽い音を立てて、何かが床に落ちた。ランプの灯りを頼りに目を凝らし、それが透明な袋に入った菓子だと気付く。輪切りにしたオレンジにチョコレートをかけた菓子――オランジェットだ。
 封は既に開いていて、たぶん元々は付けられていたものだろう、細いリボンが、ナーヴェールのポケットから垂れていた。
 アツヤの視線に気付いたナーヴェールが、さっとその袋を拾い上げる。
「ん、うまいな、これ」
 オランジェットをかじり、ナーヴェールが呟く。
 他のものとは様子の違う袋が気になり、アツヤは少年に水を向けてみる。
「えー? 貰ったんだよ」
「そりゃ、良かったな」
 その口調が気に入らなかったのか、ナーヴェールが口を尖らせる。
「べ、別に……。店に行ったらあいつもいて、貰っただけだし」
「ふむ。前から気になっていた子か、それともずいぶん可愛い子だったか。どちらかか?」
「なっ……」
 珍しく、ナーヴェールが言葉に詰まる。じわじわと、その頬に朱が差してきていた。
 普段なら、この少年に言いたい放題からかわれることが多いアツヤだが、どうやら今日は、アツヤに軍配が上がったようである。
「そりゃ、最初は誰だか分かんなかったけど。そんなの、今日がバレンタインだからちょっと違って見えただけで! 大体最初に会ったときだって……って、何笑ってんだよ!」
 何とか言いつくろおうとするナーヴェールの様子を見て、遂に耐え切れずにアツヤが吹き出した。声を殺しつつ、肩を震わせる。
「そうだ、貰ったなら、ちゃんと来月はお礼をしろよ?」
 どうにか笑い収めたアツヤが付け足した言葉に、ナーヴェールが渋い顔になった。
 視線の先には、埃とがらくたが積み上がる一角。ナーヴェールの記憶が正しければ、かつては台所として使われていた場所だが、今では使われていない。
 昔は母がよく、クッキーやカップケーキなどを作ってくれたものだが、今は頼めるような相手がいない。
「何も作らなくても。買えばいいだろ」
 ナーヴェールの呟きに、アツヤがやや呆れた声を返す。
「えー、ああいうの、高いじゃん。それに俺、女の子の好きそうな菓子とか知らねーもん」
 ナーヴェールの言葉には取り合わず、アツヤは再び長椅子の上に横になった。その様子に、思わず少年はちぇっと舌打ちを漏らす。
(まあ、チョコ、うまかったし。……可愛くない、ことも、なかったし)
 ホワイトデーまでは、後一ヶ月。
 寝床にしている階段下のスペースで、どうしたものか、とナーヴェールは遅くまで頭をひねっていた。

bottom of page