ある日のユリン
(まずったなあ……)
三区の路地を走りつつ、ユリンは内心舌打ちをしていた。後ろからは怒声と足音が聞こえてくる。
数日ぶりに流しの仕事をする気になり、彼女はその辺りの店を回っていた。
仕事をするなら四区にも酒場はある。が、それでも彼女が三区で稼ぐことにしたのは、ごく単純な理由からだった。
“流しをする気になったとき、三区にいたから。”
居酒屋などを回り、客の要望に応えて演奏する「流し」は、このコンコルディアに来る前から、ユリンの生業だった。
七本調子の鉄笛を手に、目に付いた居酒屋を回る。
今日は運が良かったのか、普段よりも金を貰うことができた。
それでつい、買い物もしていこうと思ったのが、多分良くなかったのだろう。
まだ開いていた店で、食料品を見ていたユリンに声がかかる。
「ずいぶん儲けてんじゃん。ちょっと分けてくんない?」
声をかけてきた男をちらりと見る。
体格の良い、荒事に慣れていそうな男だ。ユリンを“弱い女”と見て、カモにできそうだと思ったのだろう。
男の視線が、彼女の剥き出しの肩をつっとなぞる。その視線は、ユリンにとって不快なもの。
色事を期待する、目。こちらを人として見ていない、目。
男が一歩、近付く。
頭の奥で警鐘が鳴る。
「あたしはこれで暮らしてるのに、何だって君みたいなやつに、大事な稼ぎを渡さなきゃなんないのさ」
拒絶の言葉を吐くと、男の顔が見る間に歪んだ。
「この――!!」
罵声を聞き流し、くるりと背を向けると、ユリンはそのまま道を走り出した。
昔から、足に自身はある方だった。が、今日の相手も足が速い。
上手くまいてしまえれば、と思って、走って逃げていたのだが、どうやらそうはいかないらしい。
(うーん、こりゃさっさと“跳んで”、逃げるのが正解だったなあ)
走りながら、胸の内で呟く。
今ユリンが走っているのは細い路地。道幅は、両手を伸ばせば壁につかえてしまうほどしかない。
ユリンが自身の異能を使うには、ここは狭すぎる。一応、策がないではないが、全力疾走している今の状態では、やや厳しいものがある。
走るうちに、目の前に見えて来たのは、道を塞ぐように立つ、建物の壁。
わざとスピードを落とし、息を切らせて、少し俯いて、絶望した表情を作る。
「う、そ……」
ユリンの様子を見て、これで逃げられないと思ったのだろう。追って来ていた男も、ゆっくりとした足取りで、ユリンに近付いて来る。
「さて、この埋め合わせは、たっぷりしてもらおうか?」
そう言う顔は、他人を傷つけることへの楽しみで歪んでいた。
まだ少し顔を伏せたまま、ユリンは胸の内で間合いを測っていた。後三歩、二歩、一歩…………。
「なあんて、ね?」
ぱっと顔を上げて、にやり、笑って見せる。虚をつくために。気付かせないために。
ユリンの変化に、男が怪訝な顔をした一瞬間の後には、ユリンの姿は、男の目の前から消えていた。
「な……、どこに行った!?」
男が、呆気に取られて辺りを見回す。確かに、袋小路に追い詰めていた。逃げる場所など、ないはずだった。それなのに、目の前にいた、赤毛の女は消えていた。
ひとしきり悪態をついて立ち去る男を、ユリンは上から眺めていた。壁の側面にしゃがみこんで。
「さて。そんじゃ、帰りますかね」
すっと立ち上がり、そのまま、壁を登る。よじ登っているのではない。壁の側面を、地面を歩いているのと同じように、歩いて上まで登っているのである。まるで、ユリンの足元だけが地面になっているかのように。
“重力操作”。ユリンは、自身の異能を端的に、そう呼んでいた。
読んで字のごとく、重力を――自分自身にかかる重力を――操るのが、彼女の能力だ。重力のかかる方向を操れば、壁の側面や天井までも移動することができる。自身にかかる重力を失くせば、宙に浮くこともできる――最も、下手に無重力状態になると、勢いよく上に飛び上がって、天井に激突する羽目になるので、かなり神経を使うのだが。
やがてユリンが戻って来たのは、四区にある廃屋だった。とりあえず雨風がしのげるだけの建物で、家財道具と言えるものは、ほぼない。
奥まった部屋には、かろうじて、ぼろと擦り切れた毛布、そしてどこからか持ってきた金網で周囲を囲った、ベッドとも呼ぶのもおこがましい寝床が作られていた。
金網を持ち上げるようにして潜り込み、毛布に包まる。
そのまま目を閉じてしまえば、眠るまでは一瞬だった。