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​黄昏と黒

 夕空で烏が鳴いていた。その嗄れ声を聞き、小走りで通りを進んでいたナーヴェールは、少し顔をしかめた。
 烏だけは好きではない。今よりもっと小さかった頃は、よく母から言われたものだ。あんまりいたずらばかりしていると、烏にさらわれるよ、と。
 夜を固めたような黒い姿は、昼間に見てもどこか不気味に思われる。
(急ごう。暗くなる)
 小走りから駆け足に歩調を変える。
 今日は、知り合いの肉屋に頼まれて、二区の得意先まで肉を運びに行ったのだ。
 十分な小遣いを貰い、後は家に帰るだけ、だったのだが、ふと少年は足を止めた。
 視線の先には、店仕舞いの準備に入りかけた花屋があった。
「何か要る?」
 ナーヴェールの視線に気付いた売り子が、迷惑そうな顔も見せずに声をかけてくる。
「んー、そこの花、一本ちょうだい」
「これ? 誰かにあげるのかな?」
 うん、と、ナーヴェールが頷くと、中に入った売り子は一輪のフリージアの花を綺麗に包み、赤いリボンを巻いて持って来た。
「はい、どうぞ」
「ありがと!」
 花を受け取り、少年は急ぎ足にかけていく。
 夕焼けに染められた墓地。その一角の、まだ比較的新しい墓石の前に、ナーヴェールは買った花を供える。
 その背後から、さくりと土を踏む足音がした。片手をオーバーオールのポケットに入れつつ、振り返ったナーヴェールが、たちまち渋い顔になった。
「やあ、ナーヴェール君……だったかな」
 ナーヴェールの顔など気にした様子もなく、アージェが声をかける。
「何だよ」
「たまたま、見かけたからね。こんなところに一人でいると、危ないよ」
「分かってるよ」
 アージェに答えるナーヴェールの口調はどこか刺々しい。その理由に、薄々とはいえ気付いているアージェは、困ったような苦笑を浮かべた。
 このところ、アージェはほとんど四区にいなかった。短い時間、間借りしている知り合いの家に、寝るために戻る他はずっと、三区を歩いて回っていた。
 その中で、何度か、自分を知っている、という者に出会った。そんなときには、大抵、どこかに行っていたのかと聞かれ、その度に、彼は曖昧に笑ってその場を糊塗していた。自分が記憶を無くしている、とは、何も覚えていないのだ、とは、知られたくはなかった。
「家まで送っていこうか」
「いらない。目つぶったって帰れる」
「……そうか」
 ナーヴェールが花を供えていた墓石に近付くアージェ。墓の前でしゃがみ込み、二つの名前をじっと見つめる。
 ――…………――
(……?)
 一瞬、誰かの面影がアージェの脳裏をよぎる。
 そのとき、
「ん、おお!? ウェルナーじゃねえか! どこ行ってたんだ?」
 そんな声を上げて、ぱしん、とアージェの背を叩く者がいた。墓石のほうを向いていたアージェだけでなく、ナーヴェールも、いつの間に彼が――クラップが来たのか知らなかった。
 戸惑いを顔に浮かべつつも、振り返りかけたアージェの顔が不意に歪む。苦痛の声を漏らして膝をつき、頭を抱える彼を見て、クラップが狼狽し、ナーヴェールは反射的にアージェに駆け寄った。
「おい、どうした!?」
 答える声は声にすらならず、頭に焼けた鉄串を刺されて、そのままかき回されるような激痛が続いている。
 アージェの記憶を封じていた扉は、元から緩みかかっていた。そこに加わった一つの衝撃は、その扉を破るに十分だった。
「とにかくすぐに病院に――」
「その必要はないさ」
 墓地の入り口から、大股に歩いてきた男が、クラップの言葉に口を挟む。黒い髪の、平凡な顔つきの男。ただその黒い眼は、きれいな狂気に染まっていた。
「《異端者》のために、その男は消す。お前たちも消す」
 黒い銃口が、ゆっくりと未だ頭を抱えて蹲るアージェに向けられた。顔を強張らせたナーヴェールが、それでもアージェと銃口の間に立ち、ポケットから銀のスリングショットを取り出した。
 そのナーヴェールを、更に庇うようにクラップが前に立ち、鋭く男を見やる。
 男が口角を上げる。その銃口は、変わらずアージェを狙っている。既に引き金には指がかけられている。いつでも彼は、アージェの命を奪えるのだ。引き金を引く、ほんの一瞬の動きだけで。
 ゆえに男はこの瞬間を楽しんでいた。手に持つ得物を使って、男がしくじったことはついぞなく、その自信があるからこそ、彼は自分の優位を確信していた。
 アージェは声を止めていた。割れるようだった頭痛はようやく治まり、荒れていた記憶も静まってきていた。辛うじて耳に届いた声から、男が誰なのか悟る。
 垂れた髪の隙間から、前に立つ、小さな背を見る。小さな背は、小さく震えていて、それでも動こうとはしない。
「…………ああ、全く。君の執念深さには恐れ入るよ、ケイ。五年前、殺し損ねたのにやっと気が付いて、今ここで、って訳かい」
 静かに息を吐き、やおら立ち上がったアージェが、ナーヴェールの腕を軽く引く。
「下がっておいで、ナヴェル」
 その呼び方に、ナーヴェールが固まった。ナーヴェールをナヴェルと縮めるその呼び方は、父親だけがしていたもので、この五年、ついぞ聞いていなかったものだったから。
 目を見開いた少年と入れ替わる形で前に出たアージェの緑眼は、怒りが火となって揺らめいていた。
「俺の息子に、手を出すな」
 破裂音と同時に、ケイと呼ばれた男が拳銃を取り落とした。地面に落ちた銃の傍に、パチンコ玉が転がる。
 ナイフを抜き、アージェに切りかかろうとしたケイだったが、それより先に、クラップの拳が、あっさりとそれを弾き飛ばしていた。
 満面に怒気をたたえたケイが、狙いをクラップに定める。突き入れられた拳を、あっさりとかわしたクラップが、ケイの胴に拳を突き入れる。身体を二つに折りながらも、なおもクラップに飛びかかろうとしたケイだったが、直前でそれも避けられた。
 大きく隙を見せたケイに近付いたアージェが、その腕を取って地面に叩きつけた。息を詰まらせ、手足を投げ出すケイを見下ろして、アージェがほっと息を吐く。
「死んではいないよ。こいつにとどめを刺すよりも、今はここから離れたほうがいいだろうしね」
「そうだな。ウェルナー、身体は大丈夫なのか?」
「どうにか。帰ろう、ナヴェル。ああ、クラップ。何ならまた今度、宵越しででも飲もうじゃないか」
 墓地を出るとき、アージェ――ウェルナー・アジェは一度、後ろを振り返った。目に映る、二人分の名前が刻まれた墓に、ふと顔を曇らせつつも、彼はナーヴェールの手を引いて、夕闇の中を歩いて行った。



 その夜、ウェルナーは二階で寝ているナーヴェールの様子を見に行った。彼がいない間に、何があったのか、ウェルナーはナーヴェールとアツヤから聞いていた。
 全てを聞き終えたときには、すっかり夜も更けてしまっていたが、誰もそれを気にはしなかった。
 灯りが十分にない家の中で、角灯を手に、ウェルナーが降りてくると、居間の長椅子の上で、アツヤが身体を起こしたのが見えた。
「おや、起こしたかな」
「お気になさらず」
 角灯の灯りを受けて目を細めつつも、アツヤが言葉を返す。
「それにしても、取り返しのつかないことをしてしまったな、僕は。ニコラにも、ナヴェルにも、エル、にも」
 ぽつりと、ウェルナーが呟いた。
「……何が、あったんです?」
「知り合いに、頼まれてね。ある屋敷を調べに行ったんだ。何だか怪しげなことを……異能絡みのことだとか、麻薬をこっそり栽培しているだとか……そういう噂がある屋敷だった。クロウ……、と言ったな、当主は」
 アツヤはちょっと身を動かした。クロウ、と言えば、異能者を攫っていた、あの家だ。『カリブンクルス』を用いて『楽園』へ至る手段を探し、また、異能の排除のために、異能者を集めていた家。
「その屋敷を調べに行ったはいいんだけど……そこで襲われたらしくてね、この辺りは、まだはっきりしないんだけど、気が付いたら四区にいた。自分が誰かも分からない状態でね。最も、襲われたのは確かだし、襲ってきた奴らの中に、ケイ……その知り合いもいたのは覚えてるから、まあ、騙されたんだろうね」
 あのときは参ったよ、と笑うウェルナーに、アツヤも若干引きつった笑みを返した。
「その知り合いには、今日会ったけれど、やっぱり僕を殺す気ではいるらしいね」
「その話はさっきも聞きましたけど、洗脳を受けていた、ということですか?」
 アツヤの問いに、ウェルナーは少し考える風を見せて、困ったような表情を浮かべた。
「どちらだか、それが分からないんだ。洗脳されている可能性は、確かにある。だけど、彼……ケイは昔から、蝙蝠みたいなところがあってね。弱きを侮り強きに従うって人生観なんだ。まあ、こんな都市だ、そっちの方が賢い生き方なのかもしれないけど、それは置いておいて、今、コンコルディアが物騒なことになってるだろ。どこの区のトップも、《異端者》と戦えと言っている。でも、」
 ウェルナーはちょっと言葉を切り、迷いを浮かべる。一度立ち上がり、棚から酒瓶を取ってきた彼は、半分ほどグラスを満たすとそれを一気に煽った。
「《異端者》のやり方は上手いと思うよ、正直。いくら戦い慣れていたって、親しい人間と敵対しなければならないんだから。数では勝っていたとしても、心理的には、どうかな」
 もう一杯、グラスに酒を注いで、勢いよく飲み干したウェルナーは、鋭い目つきでアツヤを見た。
「君は、ここから逃げたほうがいいんじゃないのかな。この都市に、縁があるわけじゃないんだろう」
「……ええ。ですが、ろくに動けないこの身体じゃあ、満足には逃げられませんよ。それに……帰る場所はあっても、俺は空手じゃ帰れないし……帰る気もないですよ。カグノを殺した、あの場所には」
 アツヤの言葉に、ウェルナーは何かを察したのか、そうか、と頷いたきり、言葉の意味を訊ねようとはしなかった。
 角灯の光が徐々に弱くなり、一瞬揺らめいたかと思うと、ふっと、部屋は暗がりの中に沈んだ。

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