Memories
散らばった酒瓶と、半分壊れたような揺り籠が転がる部屋で、少年は膝を抱えて眠っている。数ヶ月前までは入ろうとしなかった部屋だが、この部屋の主がいなくなってからは、ナーヴェールは寝るときには必ずここで眠っていた。
寝るときばかりではなく、家にいるときは大抵ここにいる。膝を抱えて、何時間でもぼんやりと座っている。
身じろいで身体を起こし、カーテンもない窓から差し込む光に目を細める。
ぎしり、と部屋の外から、階段が軋む音がした。
「ナーヴェール。飯にするぞ」
部屋の外から、アツヤが声をかける。答えないでいると、アツヤはゆっくりと階段を降りて行ったようだった。
一定の間隔で聞こえていた足音が、不意に乱れる。盛大に滑り落ちるような音と共に、呻き声がナーヴェールの耳にも届いた。
廊下に出て階段の下を覗く。階段下で倒れていたアツヤが、むくりと身体を起こした。
「痛ってえ……んだよ、おい。二度目だぞこれで……」
ぶつぶつと文句を言いながら、居間へと入っていくアツヤ。ナーヴェールも一階に降りる。
以前までは辛うじて長椅子だけがきれいだった居間が、今は小ざっぱりと掃除がされている。埃や塵、蜘蛛の巣だらけだった台所も、再び使えるようになっていた。
台所は、主にアツヤが使っていた。意外にも、アツヤの料理の腕は悪くない。居間の低いテーブルには、軽く炙ったパンとサラダ、それに切った果物が並んでいる。
もぐもぐと口を動かすナーヴェールとは逆に、アツヤは長椅子に横になっていた。
朝食後、皿を洗おうと身体を起こしたものの、階段から落ちたときに打ち付けたり、前に痛めて治っていなかったりの身体のあちこちが痛み、アツヤは顔を歪めた。
「動くなよ。皿洗いくらい、俺だってできる」
「いや、それより、薬を買って来てくれないか、っ痛う……」
「寝てろってば」
「ああ。皿は水に付けておいてくれ。後で洗っておく」
長椅子に身を横たえたアツヤから薬代を受け取り、ナーヴェールは家を出た。
ぱたぱたと走って、少し先の蟲屋に向かう。
「レディ姉ちゃん、いつもの痛み止め一つ!」
「ナーヴェ、わざと言ってるだろ」
じとりとこちらを睨むレディバードに、あはは、と笑うナーヴェール。
「そういえば、いつも痛み止めばかり買っていくけど、どこか怪我でもしてるのか?」
「や、俺じゃねーよ、飲むの。俺は頼まれただけー。っと、これで足りるよな?」
「ふうん。うん、確かに」
ありがとなー、と、風のように去っていくナーヴェール。全く、とレディバードは呆れた様子で溜息をついた。
夕方、薬の配達があったレディバードは、ローズマリーに店番を頼み、薬の小包を持って外に出た。
配達先は懇意の商家で、いつものように商品を届け、代金を受け取る。
軽く世間話などを交わしながら、蟲屋に戻ったときには、辺りは薄暗くなっていた。閉店の準備をしていると、店の前を小さな影が横切った。
(ナーヴェ?)
こんな時間に何をしにいくのだろう。声をかけようかと思ったが、そのときにはもう、少年は蟲屋の前を通り過ぎていた。
「なあ」
三区の端にある墓地。他と比べて新しい墓石の前に座り、声をかける。
夜に、こんなところに来るべきでないとは分かっている。けれど、来ずにはいられなかった。
「今日、さ。おばちゃん家に行ってきたんだ。……デールのおばちゃん、母さんにまた会いたかったってさ」
言葉が帰ってくる訳もなく、それでも話しかける。
後ろから足音。それに気付いて振り返り、ナーヴェールは少し顔を輝かせた。
「ヴァン? どこ行ってたんだよ」
しばらく前に姿を消した友人が、同じ姿で立っている。
「うん……ちょっと、ね」
ゆっくりとした口調で、ヴァンが言葉を返す。
「何だよ、もう。そうだ、ノアレスのとこには行ったのか? あいつも心配してたし……」
初めは弾んだ調子だったナーヴェールの声は、段々と戸惑うような口調に変わっていく。
違和感。何かが、食い違っているような気がする。
「ああ、行ったよ」
転瞬、ヴァンの手の中で、きらりとナイフが光る。咄嗟に横に転げたナーヴェールは、狼狽えた様子でヴァンを見上げた。
「《異端者》のためだ」
「こんな子供まで、とはね」
不意に割って入った大人の声に、二人の注意がそちらに向く。
小さな角灯を手に歩いてきた男の顔を見て、ナーヴェールがその場に凍り付く。
首元まで伸びた薄金の髪、緑の目、いつも悪戯っぽく笑っているような顔立ち。
ヴァンが舌打ちを漏らし、男に向かって飛び掛かる。
笑みのまま、男は角灯でナイフを受け止める。次の瞬間、ヴァンが大きく横に吹っ飛んだ。
「相手の動きは、ちゃんと見てないと、ね」
ヴァンが起き上がって飛び掛かり、あっさりと投げ飛ばされる。
飛び掛かる。投げられる。また飛び掛かる。投げられる。
そして、一際深く男の身体が沈んだかと思うと、ヴァンは投げ飛ばされた姿勢のまま、動かなくなった。
最も、胸は動いているから、生きてはいるのだろう。
男がナーヴェールを見る。緑の目が、僅かに揺れた。
「……父、さん……?」
掠れた声で、ナーヴェールが呟く。いいや、と否定しようとした男――アージェの言葉は、何故か喉から先へ出ることはなく、そのまま消えていく。
目の前の少年の顔は、今の彼の記憶にはなく、けれど何かが引っかかる。
「ごめんね。覚えていないんだ」
少年の顔が歪む。
「な、んだよ、それ――」
言いかけて、アージェの昏い目に気付き、ナーヴェールはぎり、と歯を噛みしめて言葉を殺した。
「もう遅いし、家まで送ろう」
ざらついた硬い手が、ナーヴェールの手を取った。
二人の間に会話らしい会話はなく、時折道を聞かれたナーヴェールが、方向を答えるだけだ。
それでも、ナーヴェールを見ていると、アージェは妙な焦りが生まれるのを感じていた。これまでにも、何も思い出せないことに対して、焦りを覚えたことはある。けれど、目の前の少年を見ていると、その思いが強くなる。
(父さん、か)
ナーヴェールが零した言葉を思い出し、歩きながら、アージェは胸の内で眉を寄せた。