人はいさ、心も知らず
「いいか、僕はこれから、君たちを利用する!」
ナンバーゼロが叫ぶ。自分の過去のために、四区の住民を利用すると、これは裏切りの行為だと。
ユリンはそれを、少し離れた屋根の上で聞いていた。四区トップの言葉にも、さして感情を動かされた様子はない。
《異端者》の話は聞いた。あちこちで戦闘が起こっている、とも噂で聞いた。その《異端者》を潰すのが、ナンバーゼロの目的だと、彼の言葉から理解した。
軽く唇を噛む。
上が下を利用するのは当然だ。そう思っているから、今、彼が四区民に対して掌を返したことに、驚きはしても怒りはない。だから、胸に渦巻くのは、ナンバーゼロへの怒りではない。
屋根から降り、喧騒から離れるように歩き出す。
《異端者》に洗脳された者は、殺すことでしか洗脳を解くことはできないという。
それでも考えてしまう。一時の友人と、もう一度会えないだろうか、と。それが不可能だと分かっていても。
考えに耽っていたユリンは、陰から飛び出してきた人影に気付かなかった。全身に鈍い衝撃が走り、尻餅をつく。
「ごめん、大丈夫かい?」
手を伸ばしてきた男の顔を見上げ、ユリンは目を丸くした。
(ナヴェ?}
思わず男の顔をまじまじと眺める。年の頃は三十代くらいだろうか。薄金の髪と、緑の目の男は、ユリンの知る少年によく似ている。
男が、困惑したようにユリンを見る。
「ええと……どこか怪我でも?」
「あ、いえ。大丈夫です」
立ち上がり、軽く砂を払う。それを見て、男が、良かった、と笑みを見せた。その、どこか悪戯っぽい笑顔も、ナーヴェールによく似ている。
「君、笛吹きの子だろう? ナンバーゼロの言葉、どう思う?」
「どう、と聞かれても、別に何とも」
「でも、四区民は『家族』だって言うじゃないか。君はゼロに対して怒りはないのかい?」
「ないですよ、別に。あなたはどうなんです?」
「あはは、うん、実を言うと僕も同じでね。ゼロに何か思うより、もっと大事なことがある」
「へえ、何ですか?」
ユリンの問いに、男が一転して困ったような顔になる。
「それが……覚えていなくてね。せめて自分の名前くらいは思い出せれば、と思うんだけどね」
喉元まで出かけた言葉を飲み込み、ユリンはそうですね、と頷いた。
似ているからと言って、彼がナーヴェールと関りがあると決まったわけではない。
男の足が止まる。それまでの顔から一転し、男の表情が険しくなった。
ほぼ同時に、ユリンの口が後ろから塞がれる。首筋に冷たいものが触れた。
「動くなよ? こいつがどうなってもいいのか?」
「ふむ、随分古典的で有用な脅しではあるよね。最も……」
緑の目に、焔が灯る。男の顔から、表情が滑り落ちる。
「こっちに聞く耳があれば、だけどね」
男が地面を蹴り、襲撃者との距離を詰める。それと察してナイフを持つ腕を動かそうとしたならず者は、腕の異様な重さに目を見開いた。
いや、重いのは腕だけではない。全身が、まるで上から押さえつけられているように重い。
ならず者が状況を理解する前に、後ろに回った男のナイフが心臓に突き立てられる。
「大丈夫かい?」
「はい。……《異端者》、ですかね」
「さあ、どうだろうね」
ナイフの血を拭ってケースに仕舞う男は、死体に一瞬冷たい目を向けて歩き出す。
「そういえば、どこまで行くんだい?」
「オセロ・アパートメントまで」
「ああ、ならもうすぐだね」
男の言葉通り、白い建物が見えてくる。玄関の前で、ユリンは男に向き直った。
「ありがとうございました。えーっと……」
「ん? ああ、名前かな。とりあえず今は、アージェと名乗っているよ」
「……アージェさん。一つ、お願いしてもいいですか?」
「ん? うん、いいけど、何かな?」
「三区の、ナーヴェールって子に会ってくれませんか?」
「ナーヴェール……? ふむ、会うだけでいいのかい?」
「はい」
アージェは首を傾げ、ナーヴェール、と口の中で呟く。
「覚え、あります?」
「あるような、ないような……。とにかく、会って来ればいいんだね? 分かったよ」
お願いします、と頭を下げる。
数ヶ月前、母と『妹』を同時に失ったナーヴェールは、まだ完全には立ち直っていない。傍目には立ち直ったように見せかけていても、内心はそうではない。
自分がやろうとしていることは、悪い方へ進むだけかもしれない。けれど、それで少しでも、何かが変わるならば。
選んだからには、もう戻れない。