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鏡写しのクルチザンヌ 6

 冷たい床の上で、アツヤはのろのろと身を起こした。天井から落ちたとき、幸いにも頭は打たなかったらしいが、その代わりに嫌というほど打ち付けた背中が痛み、動くこともままならない。
 痛みを堪えて身体を起こし、頭を巡らすと、視界に赤が映った。
 壁に背を預け、両足を投げ出して座っている、暗い赤髪の女と、彼女の左腕から流れる鮮血。それさえなければ、ただ眠っているように思えるタオの姿を見て、アツヤの全身が細かく震え出した。
 昔から、彼女のことは嫌いだった。なぜ、と問われて答えられるほど明確な理由こそないが、妓楼にいた頃からタオとアツヤは馬が合わなかった。
 顔を合わせれば嫌みをぶつけ合い、場合によっては罵詈雑言の応酬になることさえあった。
 アツヤは自分から折れることはまずなく、タオも嫌みを言われて黙っているほど大人しい性格ではなかったからだ。
 それに加えて、二人の見ているものは、あまりに違っていた。妓楼という檻に囚われた女と、檻の外側から女達を見ていた男。
 タオは妓女の娘として生まれ、妓女になることを定められた女だった。売られてきた妓女のように、身代金を返さねばならない立場ではなかったが、妓女として一人前に成長するまでに使われた金を、働いて返さねばならなかった。それ故に、彼女は幼い頃から妓女の表も裏も見ていた。妓女の生きる世界が、ただ華やかなだけではないということを、タオは早くから飲み込んでいた。
 アツヤもまた、妓女を母として生まれた。しかし男であったゆえに、見世の商品となることだけは避けられた。その代わり、少し大きくなってからは楼の下働き、青年となってからは若衆として働くことになった。
 そのため、アツヤは見世のことについては、タオよりも知識はあったが、妓女のことについては、外側しか見えていなかった。
 儚く華やかな、夜の花。男に身体を売り、一夜だけの関係を持つ、“商品”の女達。誰もが自分のことしか考えず、他人への情は薄い。誰かがいなくなっても、それを気にせずに日々を送るほどに。それがアツヤの、妓女への印象だった。
 インフア――カグノは、アツヤのそんな思い込みを、初めて取り払った女だった。誰かと共に笑い、誰かのために泣き、誰かのために胸を痛める。そんなカグノを知るうちに、彼はカグノに惹かれるようになった。
 それが許されないことは知っていた。禁を犯した者の末路も知っていた。それでも、焦がれる気持ちを抑えることはできなかった。
 そして、カグノに焦がれれば焦がれるほど、アツヤにとってタオは鼻持ちならない存在になっていった。それにはもしかしたら、自分以上にカグノの傍にいるタオへの嫉妬もあったのかもしれない。
 タオが自分とカグノとの仲に気付いているらしいのは、アツヤも薄々察していた。カグノに、アツヤに気を許すなと言っていたことも聞いた。だからこそ、タオが何かする前に、二人で逃げようと考えた。
 普通に逃げたならば、まず間違いなく捕らえられる。そのことは、アツヤにも分かっていた。ただ、彼も無策で逃げようとしたわけではない。
 色街の西の端には、神を奉る廟があった。そこまでの道筋は、大門の方に続く道ほど複雑ではない。
 廟に必要なものを運び込み、客が呼んでいるとか何か口実を作ってカグノをそこに移動させ、翌朝に隙を見てカグノを連れ、色街を出て行く。
 穴だらけの計画なのは、元より承知の上。それでも、ただ逃げるよりはと思ってのこと。
 しかしその計画を実行する前に、カグノは自ら命を絶った。聞けば、アツヤが楼主に頼まれた使いで、見世にいなかった間に、脱走をはかって捕えられ、閉じ込められた蔵で首を括ったのだと言う。
 二人の仲は、どうやら楼主の知るところとなっていたらしく、見世に戻った後で、アツヤも楼主から叱責を受けた。それで済んだのは、そのとき既にカグノが故人となっていたからだ。
 誰が漏らしたのか。その疑問には、すぐに答えが出た。アツヤの中で、そんなことをするような人間は、一人しか思い浮かばなかった。
 そんなことができる人間は、タオしかいない。
 その結論と、涙一つ見せないタオの態度が、アツヤの憎悪に火を付けた。
 タオが逃げたことが知れたとき、アツヤは真っ先に追手に名乗り出た。カグノの死の原因を作ったタオに、報いを受けさせたいと、そう思って。連れて戻るのではなく、殺すつもりで追っていた。
 だが、人を殺したということが、これ程までに、重い実感を伴うものだとは思わなかった。
 痛む身体を引きずり、拳銃を手に取る。弾倉が空になった銃は、心なしか、先よりも軽い。
 全て終われば、最後は己の手で、己自身を殺すつもりだったのだが。
「まだ、来るなと言うのか、カグノ」
 呟いたその声は、誰にも聞かれずに消えていった。



――春 高楼の 花の宴
 誰かが歌っている。
――巡る盃 影さして
 切れ切れに、琴の音が聞こえてくる。
――千代の松が枝 分け出でし
 烏の濡れ羽色の髪を下ろし、少し身体を斜めにして座る人影が見えた。
――昔の光 今いずこ
 琴の音が止まる。弾き手がゆっくりと振り返り、にこりと微笑んだ。

 廻る、廻る、幻灯は。過去を映して、くるくると。

――今夜過ぎて、また今夜。天に花咲き、地に実のなるとき、西方の浄土にて、我を待つべし、あなかしこ。
 かつては澄んでいた、けれども今は薬で潰れ、絶望で濁った声が、そう呟く。
 逃げて、捕まって、連れ戻されて、三日三晩の責め折檻。妓女は商品ゆえ、外見には跡が残るような傷はない。けれど、彼女の心は既に、取り返しがつかないほど壊れていた。
――待っとった、のに。あの人は、嘘吐き、やったんやねえ。
 ぽつり、ぽつり、押し出すように、吐かれる言葉。
 嘘吐き、そう呪詛のように呟いてはいても、その目の奥には、まだ未練の影がある。
――な、聞いて。あの人に。うちを、ほんとに、愛して、くれとったんかって。
 耳に残る言葉。それが、カグノから最後に聞いた言葉だった。

 ゆらゆらと、夢と現の間を彷徨う。時折、誰かに何か言われた気がしたものの、言葉は聞き取れなかった。

 目を開ける。
「この、バカーッ!」
 いきなり飛んできた怒声に、ユリンはぎょっとして声の方を向いた。
「って、ナヴェ? どうしたの?」
「どうしたの? じゃねーよ! 俺、待ってろっつったよな! 動くなっつったよな!? 何でわざわざ動き回ってぶっ倒れてんだ、バカ!」
「それくらいにしておけ」
 ナーヴェールの後ろに、長身の医者が立つ。
「あー、セラフさん、でしたっけ。……ん、あれ、あたし、生きてる?」
「ああ。左耳と肩はかすり傷、左腕は銃弾が貫通したようだが、神経は無事だ。傷が塞がれば、また動かせるようになる。だが、もう少し運ばれて来るのが遅ければ、危なかったところだ。傷が塞がるまでは、安静にしていろ」
「そうします。そういえば、運ばれてきてからどれくらい経ってます?」
「一昨日のことだ。今日で運ばれてきて二日になるな」
「分かりました」
「じゃ、俺も帰る……あ、そうだ、せんせー、ちょっといいか?」
「どうした?」
 ナーヴェールがセラフと共に出て行くのを見送って、ユリンは一つ息を吐いた。
 少し頭を巡らせてみても、アツヤの姿はない。
 それだけでも軽い眩暈を感じ、ユリンは大人しく頭の位置を戻して目を閉じた。



「それで、何か用があるのか」
 別の部屋で、セラフはナーヴェールにそう問いをかけた。
 聞かれた少年は、んー、と唸りつつ、近くの椅子に勝手に腰かけて、足を揺らしている。
「あのさー、酒をやめさせるようにするような薬とか、あんの?」
「禁酒の薬、ということか?」
 そう、とナーヴェールが頷く。
「そういった薬はないな。まず、その薬を飲ませたい人間は、酒を止めたいと思っているのか?」
「さあ、思ってないんじゃねーの、たぶん。この前も変な酒買って来てたみたいだし。なんつったっけな……真っ赤な、何かなっがい名前の……えーっと、カ、カ何とかって酒。これくらいの瓶に入った」
 手で瓶の大きさを示して見せるナーヴェール。着ている身体に合わないシャツの袖口から覗いた右手首に目をやり、セラフは微かに眉を潜めた。
「何だ、それは」
「えー、俺酒には詳しくねーもん」
 む、と唇を尖らせるナーヴェール。
「それはともかく、本人に酒を断ちたいという強い思いがなければ、酒を断つのは難しい。そいつが酒を止めたがっているのならともかく、その気がないのなら、こちらから何を言っても、聞く耳は持たないだろう」
「そっかー……そうだよな。ん、ありがとな、せんせ!」
 そのまま飛び出して行こうとした少年の腕を、セラフは掴んで引き留める。
「痛って、何だよー?」
「腕を診せてみろ」
「えー、別に何とも――」
 少年が言い終える前に、セラフは彼のシャツを肘の辺りまでめくり上げた。雑に血の滲んだ布が当てられ、辛うじて包帯で巻かれた右腕が現れる。包帯と布を取ると、まだ血の止まっていない、短い切り傷がいくつか現れた。
「縫う必要はないな。少し待っていろ」
 傷を消毒し、包帯を巻く。
「手当としてはこれでいいだろう。傷の様子を見るから、二、三日ここに通ってこい、いいな?」
 はあい、と返事をしつつ、袖を戻すナーヴェール。
 今度こそ診療所を出たナーヴェールは、まっすぐに三区の貧民街へと向かっていた。貧民街の一角の、半分潰れたような家に入って行く。
 家に入ったそのときから、ナーヴェールは足音を潜め、静かに一階の奥部屋のドアを開けた。
「よ、女男、元気かー?」
「その呼び方は止めろ」
 抑えた声での呼びかけに、苦々しい顔で答えたのはアツヤ。長く伸ばした神を下ろし、黒い着物を肩にかけて、綿の抜けかけた長椅子に横になったまま、ぎろりとナーヴェールを睨む。
「だーってそうじゃんかー。嫌ならそんな恰好止めたらいいだろ」
「うるさい!」
 怒鳴ったアツヤに、ナーヴェールは唇に指をあて、静かに、というジェスチャーをしてみせる。
 しばらく耳を澄ませ、ナーヴェールは内心ほっと息を吐く。
「静かにしてくれよなー。うるさくしたら、あの人になんて言われるか」
「分かっている」
「ならいいけどさー」
 言いながら、近くの箱の中を覗く。中に入っているのは、648と書かれたテントウムシのロゴが入った紙袋が一つ。中は空で、開かれた薬包紙が入っている。
「……タオは、どうしている」
「ん? ああ、さっき行ったときに目、覚ました。医者のせんせ、傷が塞がるまでは安静にって言ってたぞ。てか何でお前は行かないんだよ」
「子供が口を挟むな」
「へいへい。じゃ、俺はまたちょっと出てくるよ」
 ごそごそと部屋の隅を探って、そこに隠していた何枚かのコインをポケットに突っ込んだナーヴェールは、静かに部屋を出て、廊下を横切り、家の外に出た。
 少し前に通った道を戻り、さっきは前を通り過ぎた、蟲屋の扉を開ける。
「レディ姉ちゃん、いるかー?」
 入って声を上げると、間もなく蟲屋の店主、レディバードがむっとした顔で姿を見せた。
「だから、ボクは姉ちゃんじゃなくて兄ちゃんだ」
「へーい。一昨日買ったのと同じ薬、またちょうだい」
 棚から薬を取り、紙袋に入れるレディバード。代金を払い、薬をポケットに入れたナーヴェールは、しかし去ろうとはせず、何か考える顔でレディバードを見上げる。
「まだ何かあるのか?」
「なー、レディの兄ちゃん。カ……何とかって真っ赤な酒、知ってるか? これくらいの大きさの」
 手で大きさを示して見せる。それを見る限り、普通の酒瓶とさほど大きさは変わらないようだ。
「いや、知らないけど……もしかしたら――」
「そっかー。あんがと。じゃーなー」
「あっ、ナーヴェ!」
 まだ何か続けようとしたレディバードの言葉を最後まで聞かず、ナーヴェールは蟲屋を出て行った。
 薬の入った紙袋の入ったポケットを押さえ、家に戻るナーヴェール。
 アツヤに薬を渡し、自身は部屋の隅で丸くなる。
 その直後、ガシャン、と頭上から、何かが割れる音が聞こえて来た。次いで聞こえてきたのは罵詈雑言。その声は不意に途切れ、ぎしぎしと床板が軋む。上階の人間が、どうやら歩き回っているらしい。
 その足音は部屋を出、床板を軋ませながら降りてくる。
 階段を降り、廊下を歩いてこの部屋に近付く。
 ナーヴェールは素早く起き上がり、アツヤの口に手を当てていた。
「何です、夜中に騒いだりして。エルが起きてしまうではありませんか」
 顔を覗かせたのは、亜麻色の髪の女。ナーヴェールにそっくりの緑の目はどんよりと濁り、髪はぼさぼさに乱れている。その声も、酒のせいであろう、ひどく焼けていた。
「いえ、すみません。傷が痛んだものですから」
 ナーヴェールの手を外し、すまなげに謝るアツヤ。
「あら、そうですの? なら一度、診療所に行かれてはどうかしら。あそこの先生は誰でも診てくださいますよ」
 ぼそりと、お前が診られろ、と呟いたナーヴェールの声は聞こえない様子で、にこにこと女は語る。
「ええ、そうします」
 どこか苦い顔でアツヤは頭を下げ、その拍子に背中の痛みに顔を歪める。
「ああ、エルが泣いてるわ。行ってやらなきゃ」
 そう呟き、女は二階に戻っていく。扉の閉まる音が聞こえ、ナーヴェールはほっと息を吐いた。
「エルが泣いてる、って……泣き声なんか、一言も――」
「しーっ! それ、口が裂けてもあの人の前で言うなよ! どうなっても俺、知んないからな!」
 訝しげな顔で、アツヤはナーヴェールの顔を見た。ナーヴェールは何も言わず、ただ肩を竦めてみせた。



 それから一週間。ようやく退院の許しが出たユリンは、丁寧にセラフに礼を言って診療所を後にした。
 退院できたとは言え、あと何回かは診療所に行って、傷の状態を見てもらうことになっている。
 久しぶりにねぐらに戻り、異能で軽々と二階に上がる。しばらく戻っていなかったため、そこら中に薄く埃が積もっている。
 ユリンに気付いたのか、小さく鳴き声を上げて、ネズミが数匹現れた。
「お、チュー太さん、元気だったー?」
 チューチューと足にまとわりつくネズミを踏まないように気を付けながら、寝床に潜り込む。
「はいはい、明日三区でチーズ買ってきますから」
 チーズのついでに、何か階段の代わりになるようなものを買ってこよう、と、そう思いつつ、ユリンは目を閉じた。
 そして翌日、普段よりも遅い時間に目を覚ましたユリンは、寝床の上に起き直ると、ぐ、と一つ伸びをした。軽く眩暈はしたものの、すぐにそれも治まる。
 ねぐらから外に出て、三区を目指す。
 三区の、よく行く食料品店でチーズを買った直後。
「……タオ」
 押し殺した声が、背後から聞こえてきた。振り返ると、思った通り、アツヤが立っている。
「何の用? なんて、聞く必要もないか」
「俺の用が何か、分かっているだろう、タオ」
「……そうだね。でもここじゃ、人目が多すぎるんじゃないの? ……せやろ、主さん?」
 小さく鼻を鳴らし、アツヤは不意にユリンの左腕を取って引き寄せた。塞がったばかりの傷がずきりと痛みを訴える。
「来い」
 ユリンの腰の辺りに、冷たいものが当たっている。
「別にこんなことせんでもよいのに。野暮なお人やねえ」
 すっと自分の腕をアツヤの腕に絡ませ、手を重ねる。顔を歪めて自分を見下ろすアツヤに、ユリンは声を潜めて囁いてみせた。
「女に刃物突き付けてること、知られたい?」
 憤懣やるかたない様子で見下ろすアツヤに対し、ユリンは涼しい顔を崩さない。
 二人がやってきたのは、人気のない路地裏だった。建物の壁を背にして立つユリンと、その前に立つアツヤ。
 アツヤは短剣を持ち、その切っ先を、ユリンの首に突き付けている。
「もう生かすものか。今度こそ、殺してやる」
「なら、一つだけ教えて。君、カグノ姐様を愛してた?」
 その問いに、アツヤの顔が歪む。
「お前などに言う義理はない!」
「あたしが聞くんじゃない。姐様が、最後に聞いてほしいと、そう願ったから聞くんだよ。本当に、カグノ姐様を愛してた?」
「お前には、何も言うつもりはない! カグノに世話になっておきながら、カグノとのことを、楼主様に告げたのはお前だろう! そこまでカグノが愛されることが許せなかったのか!」
 激情に駆られたアツヤの言葉に、ユリンは一瞬目を見開いた。
「……違う」
「何が違う!」
「確かに、あたしは君とカグノ姐様が愛し合ってることは知ってたよ。でも、それを告げ口したのはあたしじゃない」
「お前じゃないなら、誰が……!」
「知らないよ。他の人じゃないの。あたし以外に、気付いてる人だっていたかもしれないじゃない」
 まっすぐに、青い目でアツヤを見据える。
「あたしは、カグノ姐様に幸せになってほしかった。だから、誰にも言わずに黙ってた。あたしはね、自分が愛されたことがないからって、他の人にまで同じことを望むほど、狭い心の持ち主じゃない」
「は、それも貴様の手管の内か! お前のような人間の言葉など、どれほど飾っても、嘘ばかりじゃないか!」
「嘘ばっかりって、君にだけは、それ言われたくないかな!」
 腰に付けた笛袋から、鉄笛を引き出してさっと横に払う。強かに腕を打たれ、アツヤが短剣を取り落とした。
「『今夜過ぎて、また今夜。天に花咲き、地に実のなるとき、西方の浄土にて、我を待つべし、あなかしこ。』その手紙を受け取ったから、姐様は手紙で言われた通りに西の廟に行ったんだよ。……謎かけだよね、あの手紙。『今夜過ぎて、また今夜』は、『明日の夜』、『天に花咲き』は、『月星が空に出るとき』、『地に実のなるとき』は、『草の葉に露が落ちるとき』、『西方の浄土』は、『西の廟』。言いたかったことは、『明日の夜、草の葉に露の落ちるときに、西の廟で待っていろ』と、こうだよね」
 アツヤが呆然と、ユリンの顔を見る。
「だからあの日の夜、姐様は西の廟に行った。でもすぐにそのことはばれて、捕まって連れ戻された。君が言ったんでしょう。わざと姐様を逃がして、その後で。そんなに姐様を傷付けたかったの。姐様は、心から君を愛していたのに」
「……俺じゃない」
 絞り出すような、アツヤの声。
「その手紙は、俺が書いたものじゃない」
「まさか! 君の名前で、君の筆跡だった。あたしはこの目でちゃんと見たし、今でも覚えてる。第一、君以外の誰が、そんな手紙を書くのさ」
「確かに、西の廟を使おうと思っていた。だが俺は、そんな手紙は書いていない!」
 嘘とも演技とも思えないアツヤの言葉に、ユリンは眉を潜めて彼を見た。アツヤはユリンの言葉に心底驚き、動揺しているらしかった。
 その様子に、ユリンの胸にも違和感が芽生える。
 アツヤとカグノは、ユリンから見ても、心から愛し合っているようだった。
 それに、謎かけの手紙。アツヤの筆跡そっくりだったから、自然と彼からのものだと思っていたが、妓女の間での流行だった謎かけの手紙を、カグノ以外の妓女を嫌っていたアツヤが、わざわざ使うだろうか。
 それに、手紙は焼き捨てでもしない限り、後に残る。謎かけとは言え、謎自体はさほど難しいものでもなかったから、少し頭の回る者なら、あっさり解いてしまうだろう。
 楼で生まれ、楼で育ち、逃げた妓女の末路もユリンと同じくらいよく知るアツヤが、そんな危険を犯すだろうか。
「君でないなら、誰が書いたの」
 鉄笛を突き付けたまま、静かに言葉を落とす。
「……分からない」
 アツヤが俯いて、首を振る。
「カグノ姐様は、手紙を君からだと信じてた。信じて、廟に行って、捕まった。その後のこと、君も知ってるでしょう」
 ついに、アツヤが地に膝を付いた。
 空が曇り、ぽつりと雨が落ちてきた。冷たい雨が、二人の上にも振り落ちてくる。
 放心しているアツヤの横を通り抜け、ユリンは小走りにその場を立ち去った。
 それからしばらくして、三区のあちこちを回って手に入れた縄梯子をぶら下げ、ネズミにチーズをやっていたユリンの耳に、ぎしぎしと縄が軋む音が届いた。
 振り返ると、濡れ鼠のアツヤが立っている。短剣を、手に持って。
「タオ、手紙の話は本当か」
「嘘なんかつかないよ。それより、あたしの――カグノ姐様の質問に、まだ答えてもらってないんだけど?」
 アツヤはしばらく黙っていた。あまりにも静かなので、彼がそこにいることを忘れそうになるほどだった。
「俺は……カグノを、愛、していた」
 やがて、ぽつぽつと、聞き逃しそうなほどの小声でアツヤが呟く。
「……そう。分かった」
 ゆっくりと、アツヤに向き直る。強さを秘めた青い瞳と、戸惑って揺れる黒い瞳が交錯した。
 ユリンの目に何を見たのか、アツヤは目を伏せて部屋を出、縄梯子を降りていく。
 雨の中去って行く姿を、ユリンは窓からただ眺めていた。

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