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鏡写しのクルチザンヌ 5

 鐘の塔の最上階、鐘の間。ユリンはそこから、暮れなずむ都市を眺めていた。夕日で橙色に染められた顔は、取り澄ましているようで、どこか悲しげだった。
 空色から橙色へ、そして金へと変わりゆく空に目をやる。
 彼女は、何を思ってあの簪を付けていたのだろう。
 ユリンが送った簪を、心から喜んでくれた彼女。
 その笑顔を見て、ユリンも嬉しかったのだ。
 好意を純粋に受け取ってくれる相手など、ほとんどおらず、好意をあえて向けようと思う相手もいなかったから。
 もっと、自分にできたことがあったのではないか。話を聞かせるだけでなく、彼女の話も聞いて、彼女のことを知っていれば……。
 唇を噛み、その痛みに慌てて舌で唇をなめる。舌先に鉄の味。舌の触れた部分がぴりりと痛んだ。
 唇に手を当てると、鮮やかな赤い滴が手に付いた。
「ユリンーー!!」
 思いに沈んでいたユリンの意識を引き戻したのは、少年の叫び声だった。
 驚いて振り返ると、汗を滴らせ、息を切らしたナーヴェールがそこに立っていた。
「ど、どうしたの、ナヴェ」
 やっと見つけた、と走り寄ってきた少年は、普段の彼なら浮かべない、焦った表情でユリンの腕を掴んできた。
「なあ、リィのこと、覚えてるよな!?」
「へ? あたしそこまで物覚え悪くないよ。ケムダーって人のところに連れて行った、黒髪の女の子でしょ?」
 その答えに、ナーヴェールがほっとしたように何度も頷く。
「良かったぁ。これでユリンまでリィのこと忘れてたら、俺、どーしようかと思った」
「どういうこと、それ」
「どうもこうも、ノアレスも、あの女男も、リィのこと、覚えてないんだよ! リィだけじゃなくって、スーリャとヴァンのことも! ノアなんか、あんなに気にしてたのに、今じゃ『誰だそいつ』なんて言うんだぜ!?」
 まくし立てるナーヴェールとは対照的に、ユリンの方は表情を動かしもしなかった。
「でもさ、いなくなった人がすぐに忘れられるなんて、いつものことじゃない。そう騒ぐことでもないでしょ?」
 ぽかん、と口を開けるナーヴェール。
 ややあって。
「んな、訳、あるかーっ!!」
 鐘の間に、ナーヴェールの怒声が響いた。
 きょとんとその様子を見ていたユリンの顔が、ふと顰められる。
「だから、言っただろう。仲の良かった人間が目の前で死んでても、泣きもしなかった、薄情が服を着て歩いているような奴だ。聞くだけ無駄だ」
「あら、随分な言い草やねえ。うちはそこまで薄情な人間やないし、主さんみたいに、したらあかんこと、わざわざするような天邪鬼でもないんよ?」
 顔を憎悪で歪めたアツヤと、綺麗な笑顔で言葉を返すユリン。
 歯噛みをしたアツヤが、懐から黒い塊を取り出した。真っ直ぐに、ユリンにそれを向ける。
「ちょ、おま、それずっと持って……!? じゃなくて、銃なんか出して何する気だよ!?」
「どいてろ、ガキ」
 ぎろりとアツヤがナーヴェールを睨む。ユリンは小さく息を吐き、ナーヴェールを脇へ押しやった。
「どうせ、主さんには、撃つだけの度胸もありはせん。せやろ?」
 笑顔を作る顔とは反対に、口調には温かみの欠片もない。
 答えの代わりに、破裂音が響いた。
 ユリンが目を見開く。大きくその身体が後ろに傾いだかと思うと、ユリンはそのまま下へと落ちていった。
 固い音を立てて、アツヤの手から銃が滑り落ちる。
「ユリン!」
 慌ててナーヴェールが真下を見下ろす。しかし鐘の間は地上から三十メートルのところにあるため、地上の様子ははっきりとは伺い知れない。
「違う……落としたのは、俺じゃない」
 呆然と呟くアツヤを残して、ナーヴェールは螺旋階段を駆け下りた。入り口から外に飛び出し、辺りを見回す。
 見える範囲に人影はない。おそらく落下しているだろう場所に、死体すらないことに、ナーヴェールが首を傾げたときだった。
「何を探してるの、ナヴェ?」
 笑いをこらえるような響きの声が、後ろからかけられる。思わず妙な叫び声を上げて振り返ったナーヴェールを見て、声の主はくすくすと笑った。
「ユリン!? だ、大丈夫なのかよ!?」
「まあ、何とか。異能がなかったら死んでたけどね」
 けろっとした顔のユリンだが、その左腕は赤く濡れていた。白い服も、流れる血でじわじわと赤く染まっていっている。
「と、とりあえず病院……ユリン!?」
 ユリンがふらりとなり、その場にへたり込む。唇には笑みが刻み込まれていたが、その顔からは血の気が引いていた。
「あはは、大丈夫。ちょっとふらついただけだから」
「大丈夫なわけあるかっての。人呼んでくるから、待ってろ。動くなよ!」
 走っていく少年を見送って、ユリンはゆっくりと立ち上がった。
「それが、そうもいかないんだよねえ」
 ぽつりと、誰に届けるわけでもない呟きを落とす。
 傷口を手で押さえながら、少し歩いては止まり、少し歩いては休みつつ、ホールを横切り、螺旋階段に足をかける。
 肩を上下させながら、階段を上っていく。銃弾が貫通した左腕は、途切れることなく痛み続け、血も腕を伝っていたが、それには構わずに。
 地上から十メートルのところにある、中央フロアにつき、更に上へ向かおうとしたとき、上から声が降ってきた。
「タオ、貴様、なぜ生きている!?」
「死んでへんから、やねえ。主さんには、残念やろうけど」
 痛みを堪え、綺麗に笑いながら、皮肉交じりに言葉を投げる。
「なら今度こそ、殺してやる!」
 銃声。ユリンの耳を掠めて、鉛玉が飛んでいく。
 アツヤの顔は憎悪に歪み、手に持つ銃は細かく震えていた。
「そんなことせんでも、人間いつかは死にますえ?」
「黙れ!!」
 三度目の発砲。今度も弾はユリンに当たらず、壁に弾痕を作る。
「なぜお前のような奴が生きている! カグノが死んでも泣きもせず、平気な顔して客を取るようなお前みたいな奴が、なぜのうのうと……! カグノの代わりに、お前が死ねば良かったのに!」
 今度の銃弾は、ユリンの左肩に浅い傷を作った。
「……全く、主さんは…………ああ、もういいや。あのさ、君、あたしと同じくらい長くあの楼にいたよね? それなのに、何でここまで物を知らないのさ! あたしが泣かなかったって? 平気な顔して客を取ってたって? 当たり前じゃん、あたしは妓女だよ? 客を取るのが仕事なんだよ? それに、泣き腫らした顔で、人前に出られるわけないし、そもそも、あたし達は、泣くことも、許されてなかったんだよ」
 ふっと、ユリンの顔に影が差す。それも一瞬のことで、すぐにユリンは、青い瞳で真っ直ぐにアツヤの黒い瞳を見据えた。
「君は良いよ。若衆として、あたし達の表だけを見てれば良い。見えないところで、どれだけ暗い思いが渦巻いてたって、知らん顔して、自分の仕事をやってれば、それで良いんだから。客を取ることもない、陰口を叩かれることもない。羨ましいご身分だよね、ほんと」
 すっと愛用の鉄笛を取り出し、構える。それを見て、アツヤも拳銃を構えなおした。
 破裂音。瞬時に身を沈め、そのままアツヤとの距離を詰める。
 至近距離に入れば、銃は使えない。
 拳銃を持つ右手を鉄笛で打ち据え、落ちた拳銃を蹴り飛ばす。
 そのままアツヤの腕を掴み、異能【重力操作】を発動させ、重力を反転させる。天井に嫌というほど背を打ち付け、アツヤが呻き声を上げる。
「何だ、何をした、タオ!」
「何でもいいでしょ。こうでもしないと、君、話聞いてくれないからさ。ねえ、君、カグノ姐様のこと、ほんとに愛してた?」
 その問いを聞いて、アツヤの顔が大きく歪んだ。
「貴様に教える筋合いはない!」
 強く突き飛ばされ、ユリンの身体が横ざまに倒れる。アツヤの身体がユリンと接触しなくなった、その瞬間、アツヤは本来の重力に従って、中央フロアの床に落下した。
 息が詰まったのか、アツヤはぐったりと床に倒れている。
 その近くで、ふわりと床に降り立ったユリンだったが、その身体は大きく傾いた。
「あー……やっぱ、駄目か」
 参ったな、と言いたげに力なく笑い、ユリンは壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。
 傷口からは、相変わらず出血している。左袖は、そこだけが鮮やかに赤く彩られ、まるでそういうデザインのようにも見えた。
 死ぬのだろう、と、そう思って、そのことに、自分が何も思わないのが、意外と言えば意外だった。
 これまで見てきた妓達、死ぬことが決まった者達は、皆、最後の瞬間まで泣き叫んでいた。嫌だ、と。死にたくない、と。
 だから自分も、そんなときが来たら、きっと彼女達のように、死にたくないと泣くのだろうと、漠然と思っていたのだが。
(案外、あたしって執着なかったんだね)
 自分でも何がおかしいのか分からないまま、笑みを漏らす。
 出血が続いているせいか、段々意識が朦朧としてきた。
(眠……)
 忍び寄る眠気に抗えず、ユリンはそっと青い目を閉じた。

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