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鏡写しのクルチザンヌ 4

 三区の古本屋、小さな灯火。様々な本を取り扱う古書店は、その日も穏やかな朝を迎えていた。
 店主の少年、シルヴェールは、今日も一通り店の掃除を済ませた後、椅子に座って横に積んであった本を手に取り、読み始めた。
 読み進むうちに、シルヴェールの意識は現実から離れ、物語の世界へと入り込む。
 が、穏やかな時間は不意に破られる。
 激しくドアが開かれる音、何かが倒れる音と、おそらくは本が何冊か落ちる音。
 びくりと身体を震わせ、そろりと音のした方を伺う。視線を向けた先では、小さな影があちこちと動き回っていた。
「痛ってぇ……。えーっと、これはこっち、で、こっちの青いのはそっち、と。よし。おーい、シルー! いるかー?」
「お、おどかさないでよ……びっくりした……」
 声の主が店の常連、ナーヴェールだと知り、シルヴェールはほっと安堵の息を漏らした。悪い悪い、とナーヴェールはいつもの、どこか生意気そうな笑みを浮かべ、それからふっと真顔になる。
「シル、最近ここに女男……アツヤのやつ、来たか?」
 そう尋ねると、シルヴェールは記憶を辿るように軽く唸った。
「えーっと、確か、一週間くらい前に来てたよ。……そういえば、最近あの人来てないな」
 シルヴェールの言葉を聞きつつ、ナーヴェールも記憶を探る。一週間前。三区でアツヤの姿を見かけなくなったのも、おおよそその頃からだ。
「そっか。そういや何か仕事はあるか?」
「ううん。今日は特にないかな」
 りょーかい、と一言を残して、ナーヴェールの姿が通りに消えていく。ドア越しにシルヴェールがその姿を見送り、本を取り上げたとき、出て行ったはずのナーヴェールが戻って来た。
「ナーヴェ、どうかしたの?」
「んや。ほら、最近いなくなるやつ多いし、ぶっそーだから、気を付けろよ!」
 不意の忠告に、シルヴェールはきょとんと眼をまたたかせた。
「何かあったら俺に言えよ。そんな奴、のしてやるんだからな」
 大人のように胸を張るナーヴェール。その姿を見て、シルヴェールは思わずくすりと笑った。
「ありがとう。気を付けるね」
「おう、じゃーなー」
 小さな灯火から通りに出たナーヴェールは、難しい顔をして唇を尖らせた。
 この二日間、居酒屋、食料品店、はるさめ昆布、そして小さな灯火と、これまでアツヤが行ったことのある場所、よく行く場所は全て回ってみたが、思っていたよりも情報がない。
 今日の夜、集めた情報をユリンに伝える約束だ。
 子供ながら、ナーヴェールにも意地はある。二日かけて探し回って、結果がこれではナーヴェール自身、納得がいかない。
 やがて何事か思いついたのか、ナーヴェールはたったっと小走りに道を駆けて行った。
 通りを外れた路地裏。元は家が建っていたのか、その残骸らしいぼろぼろの塀だけが残る小さな小さな広場。
 ナーヴェールがそこに着いたとき、傍の建物の陰から、黒髪の少年が息せき切って駆け込んできた。
「ナヴェ!」
「ノア、どうしたんだよ?」
「リィ、見てないか? いなくなったんだよ!」
 この言葉に、ナーヴェールは顔を強張らせた。リィは、目の前の少年、ノアが見つけて面倒を見ている少女である。コンコルディアに来てからまだ一ヶ月と経っておらず、またノアはあちこちとねぐらを変えて過ごすのが常のため、住所も定まっていない。
 ノア曰く、例の虐殺は二区でも起きており、リィの事情もあって、しばらく二人は一ヶ所にとどまって生活していたという。
 そんな中、人探しをしていた二人の内の一人、ケムダーが、条件に当てはまる人間を保護していると人伝に聞き、まずはリィも保護してもらえるのか聞きに行こうと、リィには留守番をしているように言い含めて、ノアはケムダーの元へ向かった。
 事情を話すと、ケムダーは快く保護を請け負ってくれたので、ノアは急いでねぐらに戻り――戻ったときには、リィはいなくなっていた。
「オレのせいだ。リィも連れて行ってたら……」
 ぎり、とノアが歯を鳴らす。
「ノアのせいなもんか。あいつらが悪いんだ」
 ぎゅっと唇を引き結ぶ。ナーヴェールの緑色の目には、はっきりと怒りが浮いていた。
 ナーヴェールも、ノアもリィも、また、スーリャとヴァンも、皆孤児である。親の顔を知らぬ者も、親から捨てられた者も、親を捨てた者もいる。
 庇護してくれるものがいない子供らは、互いに互いを庇護していた。
 故に、例の虐殺者らに対して、彼らの憤りは大きかった。
「あ、そうだ。スーリャとヴァンも、二区で保護されてる。オレがちゃんと見たから、間違いないよ。もう一人の……女男の方は、分かんなかったけど」
「分かった。俺もリィのこと、探してみるよ」
 自分たちには、大人ほどの腕力も、対等に戦うだけの力もない。けれど、この荒廃都市でこれまで生き抜いてきた、その強さはある。
 見せてやろう。非力な子供の、強かさを。



 鋭い音を立てて、刃が肉を裂く。
 乾いた音と共に発射された鉛弾が、肉を貫き、血の華を咲かせる。
 襲撃者達は容赦なく、倒れた男を引き起こそうとする。
 男は、苦痛に顔を歪めながらも身体を捻り、懐から何かを引き出すと、それを手で握りつぶしながら、襲撃者達に向かって投げつけた。
 それは細かい砂のようにも見え、故に彼らは気にもせず、男が庇っていた少女にも、その凶刃を向けようとした。
 異変はその瞬間に起こった。男に近付いていた襲撃者達が、突然顔を押さえて悶え始めたのである。
 男はその隙に、重傷を負う身でありながら、再び少女を抱えて走り出す。
 めちゃくちゃに走って、二人はどうにか人気のない小屋に身を隠すことができた。
 上手く撒けたのか、襲撃者達が追って来る様子はない。
 抱いていた少女を床に下ろす。長い、黒い髪の少女は、顔に怯えを残しつつも、黒い目を不安げに男に向けていた。
「大丈夫?」
 男――アツヤは脂汗の滲む顔で、どうにか唇を吊り上げて笑みを作った。
「ああ、大丈夫だ、これくらい」
 口ではそう言いつつも、状況は全く良くない。
 目の前で殺されようとしていた少女を庇った際に背を切られ、次いで銃で左肩を撃たれた。
 帯を解き、動くには恐ろしく邪魔になる着物を脱ぐ。下に着ている長襦袢も、傷口の周辺が赤く染まっていた。
 持っていた手拭いで、肩の傷を縛る。
(この先、どうすればいい)
 焦りはあれど、今出て行くのは危険だ。闇雲に走ったせいで、ここがどこなのか分からない。
 何よりも分からないのは、あの襲撃者達の思惑。
 突如として虐殺が始まり、何が目的なのかさえ分からない。
 ゼウスが望んだ。それが彼らの理由らしいが、何がどうゼウスのためなのか。まさか、流された血と、奪った命とを、ゼウスへの贄として差し出すとでも言うのか。


 ある秋の夕暮れ、辺りが薄暗くなってきたころ、ユリンは、カグノに用があって、彼女の部屋へと向かっていた。
 少し前に正式に妓女となり、母譲りの見た目もあってか、ユリンは既に人気の妓女の一人となっていた。
 故にこのところ、陰口を叩かれることも多く、あまり人に会いたくないと思ったユリンは、普段なら通らない、若衆用の通路を通っていくことにした。
 これは子供の頃に覚えたもので、人に見られることは少なく、かつ目的地によっては普通に行くよりも早く行き着けるので、時間がないときは、今でもこっそり通っていた。
 足音を忍ばせつつ、滑るように歩いていると、カグノの部屋から、押し殺した人の声が聞こえてきた。
 まだ楼の開く時間でもないのにと、不審に思いつつ、じっと声を聞いていたユリンは、それがカグノと、楼の若衆、アツヤの声だと気付いてその場に凍り付いた。
 かたり、と引き戸に手がかけられる。慌ててユリンはカグノの部屋の次の間へ滑り込み、戸を閉めると、素知らぬ顔で箪笥の前に座り、着物を選ぶふりをしていた。
「あら……ユリン、いつ来とったん」
「んー? ついさっき。姐様、今日はこの着物はどうお?」
 ユリンが出して見せたのは、秋らしく、紅葉を散らした艶やかな着物。
「せやねえ……今日はお座敷に出んなんし、それにしよか」
 にっこりとカグノが笑う。
 着付けと髪結いを手伝っていたら、今度は自分の準備の時間が無くなりそうになり、カグノに促されたユリンは大慌てで自分の身繕いを整えたのだった。
 ユリンが、二人が会っているのを見たのはこの一度ばかりではない。あるときはカグノの部屋で、あるときは物陰で、カグノとアツヤが愛の言葉を囁きかわすのを、彼女は見かけていた。
 アツヤが客であったなら、問題はない。だが、アツヤは客ではなく、この楼で働く若衆の一人である。
 妓女と若衆との恋は、どこの楼でも御法度である。妓女が客の中に本命の相手──間夫を持つのは許されていても、その相手が若衆だと分かったが最後、引き離されるのが常であった 若衆と恋仲になった妓女は、その男に義理立てて、客を取るのを嫌がることが多いためである。
 見世にとって妓女は商品。稼いでもらわねば困るのだ。
 それでも若衆と恋仲になる妓女はおり、その恋が成就したものはいない。良くて若衆は遠くへやられて生き別れ、悪ければ心中か、それが見つかっての刑死と、ろくなことはない。
 生まれてからこれまでずっと楼で暮らしてきたユリンには、この先、二人がたどる結末は容易に想像できた。
 一番いいのは、こっそりと二人の仲を楼主に告げること。けれど、それをすれば、自分が唯一親しんでいる人を失うことになる。つっけんどんに、本名など忘れたように、自分を、タオ、としか呼ばない妓女達の中で、唯一、ユリン、と呼んでくれる人を。
 それだけは聞きたくなかった。カグノにだけは、タオと呼ばれたくはなかった。
 そうしてユリンが選んだのは、目を閉じ耳を塞ぎ、見えぬ聞こえぬと自分を騙す道だった。
「ユリン!」
 肩を叩かれて我に返る。
 ユリンがいるのは鐘の塔の前。傍ではナーヴェールが、不満をありありと顔に表していた。その横には、黒髪の少年が立っている。
「どうしたんだよ、さっきから呼んでたのにさ」
「ごめんごめん。ちょっと考え事してたもんだから。あれ、その子は?」
 軽く頭を振って、気持ちを切り替える。過去に沈むのは後でいい。
「こいつはノア。で、ちょっと相談なんだけどさ……」
 ナーヴェールから事情を聴いて、ユリンは小さく唸った。とはいえ、そう悩むほどの問題ではなく、すぐに結論は出る。
「いいよ、その子も探そう。そうだ、ナヴェ、これ持ってな」
 ウエストポーチからユリンが取り出したのは、彼女の掌よりも短いナイフ。
「ナイフ?」
「それ、飛刀って言ってね、まあ、投げナイフだね。こういうの、得意でしょ?」
「おう、借りとく。じゃあ、前に進め、だ!」
 ナーヴェールの号令一下、三つの人影が、二区に向かって進み始めた。
 遠くで、断続的に破裂音がしている。かすかに、悲鳴らしきものも交じって。
 三人が初めに足を踏み入れたのは、二区のスラム。荒れたその場所には今、おびただしい赤が加わっていた。
 そこここに、物言わぬ肉塊が転がっている。ただそれだけで、ここで起きたことを知るには十分だった。
 むせ返るほどの、鉄にも似た血の臭いに、ユリンだけでなく、ナーヴェールやノアも顔をしかめる。
 きり、とユリンが奥歯を噛み締める。
 きっと、何もしていない者もいたはずなのに。
 そのとき、一番先頭を歩いていたノアが、さっと手で合図を出した。後ろの二人はその意味を正確に読み取り、三人は物陰に身を潜める。
 三人が進もうとしていた方向から、数人の一団が姿を現した。彼らは手に思い思いの武器を持ち、それらは、月明りでもわかるほど、血に濡れていた。
 衝動的に、飛び出しそうになったユリンの腕を、すんでのところでナーヴェールが掴む。物言わずとも、その表情で彼の言いたいことは分かった。
 ユリンは静かに息を吐き、彼らに見えないように身体を縮こませた。
 蛮勇は勇気ではなく、軽率な行動は撤退に劣る。
 一団が完全に行き過ぎるのを待って、三人は警戒しながら物陰から出る。
 スラムを抜け、街中に入る。
 どれほど歩いたころか、ふと道の端に何かを見つけたナーヴェールは、背をかがめてそれを拾い上げた。
「ユリン、これ……」
 それを見て、ユリンが眉を吊り上げた。ナーヴェールの手の中にあったのは、淡い桃色と、白い花弁との、二色の花を組み合わせたかんざし。かつてはカグノの髪を飾り、最近はアツヤが身に着けていたそれである。
「二区にいたんだね」
 かんざしが落ちていた道は、近くで二股に分かれており、片方は比較的広い道、もう片方は細い道。
 二区にいることも多いノア曰く、広い道をもう少し行けば、ケムダーが対象者を保護している廃墟に行きつくと言う。
「じゃ、まずそこに行って聞いてみようか。もしかしたら保護されてるかもしれないし」
 希望的観測だとは分かっていたが、あえてそう口に出す。
 足を早めた三人だったが、廃墟にはアツヤもリィもいなかった。
 それを知って、目に見えてしょげたノアだったが、それでも諦めるつもりはないようで、今度は細い道を探しに行く、と言い切った。
 三人は来た道を戻り、今度は細い道へと入る。そんな三人の後ろを。静かに着けていく人影があった。
 細い道の方はくねくねと入り組んでいて、同じような風景が続き、気を抜けば迷ってしまいそうだ。
 建物を覗き込み、人がいるかどうか確かめながら進む。
 そうして、とある小屋を覗き込んだときだった。
 暗い奥の方で、衣擦れの音がする。目を凝らすと、黒に交じってぼんやりと赤が、そして比較的はっきりと、白い曼珠沙華が見えた。
「誰かいるの?」
 静かにユリンが声を投げる。
「な……タオ、なぜ、貴様が?」
「ああ、主さん、生きとったん」
 小屋の扉を押し開けて、中に入る。
 引き被っていた着物をめくって、黒髪の少女が顔を覗かせる。少女を見て、ノアの顔がぱっと輝いた。
「リィ!」
「ノアお兄ちゃん!」
 どうやら、ノアの探し人も見つかったようだ。
「何だよ、怪我してんのか?」
「大したことはない」
 ナーヴェールに答えるアツヤの声は、しかし苦しげで、それを聞いたユリンは溜息をついた。
「まぁた、痩せ我慢して。ひどい怪我やないの」
「……るっ、さい、タオ、貴様の情けなど……」
「はいはい、意地張んのは後で。この辺、診療所とかある?」
「多分、三区まで行かないと……」
 ユリンに答えたのはノアだ。三区か、と呟いて、ユリンはリィを抱き上げた。
「ナヴェ、その人よろしく。あたしの手は借りたくないってさ」
「任されよーう」
 ナーヴェールが少しおどけて声を上げる。
 ユリンがノアとリィと共に、小屋を出たとき、前方から男が姿を現した。彼の視線は、真っ直ぐにリィへと向けられていた。
 腕の中で、リィが怯える。
「その子供を渡せ。そうすれば、お前達の命は取らないでやる」
 向けられるのは、銃口。
「どうして?」
「それがゼウスの望みだ」
「そう」
 ユリンは、ゆっくりとリィを地面に下ろした。隣でノアが眼をむく。
「おい!」
 左手でリィの手を握り、右手でノアの手を握る。そのためにかがんだ一瞬で、ユリンはノアの耳元に低く囁いた。
「走るよ」
 手をつなぎ、男に向き直る。
「今から行くから」
 一歩、踏み出すと同時に、自身の異能【重力操作】で自分への重力を軽くする。その効果はユリンが触れている二人にも及び、一瞬で、三人は男の眼前に迫る。
 虚を突かれた男を他所に、勢いよく地面を蹴って、その頭上を飛び越える。
「さばんくぶのぼしびんりょぼうぶじょぼ!」
 ナーヴェールがそう怒鳴ったのと、三人が着地したのはほとんど同時だった。
「わばかばったば!」
 ノアがそう怒鳴り返す。
 後ろで破裂音。飛んできた鉛弾が、ユリンの頬を掠めた。
 振り返らずに道を走る。三人の姿はあっという間に遠くに消える。
 初めは追おうとした男だったが、追いつけるわけもなく。舌打ちを漏らして小屋の方に向き直り、扉を押し開けた。
 転瞬、光るものがひょうと空を切り裂いて走り、ぐさりと男の右目に突き立った。突然の苦痛に、男は手にしていた銃を取り落とし、目を覆ってうずくまる。ユリンから受け取っていた飛刀を投げ打ったナーヴェールは、すかさず手から離れた銃を拾い、小屋の奥へと放り投げた。
「この、ガキが……!」
 目に飛刀を突き立てたまま、憤然として男がナーヴェールに手を伸ばした。
 胸ぐらを掴み上げられ、ナーヴェールの身体が宙に浮く。
 じたばたともがくものの、子供の力では逃れられる訳もなく。
 男の手が、少年の首へと伸びた。
 アツヤはその場に磔になったようにそれを見ていた。いつもそうだ。いつも、自分は、動けない。大事なときに限って。
 ふと、気付いた。ナーヴェールが放り投げた銃が、ちょうど手の届くところに落ちている。だが、銃など扱ったことはない。
――主さんは、いっつもそうやね。そうやって、自分は動かんまんま。楽やろうね。
 ためらった瞬間、脳裏に蘇ったのは、タオの――ユリンの言葉。
 あれはいつのことだったか。カグノが死んだ翌日だったか。
 楽なものか。そう、胸の内で毒づく。いつも結果ばかりを知らされて、何もできなかったことを後悔するしかないというのに。
 手を伸ばし、銃を拾う。冷たい鉄の武器はずしりと重い。
 男に銃口を向ける。
「その……子供を、離せ」
 震える銃口に、それでも男は一瞬気を取られた。
 アツヤが作ったその一瞬、ナーヴェールが、男の目に刺さっていた飛刀を殴りつけた。元々かなり深く刺さっていた飛刀は、その一撃で柄までめり込む。
 そのまま男の手を振りほどき、どうにかナーヴェールは床に降り立った。
「これでもくらえ!」
 ナーヴェールが、思い切り男の股を蹴り上げる。
 悶絶した男をよそに、二人は小屋を出る。周囲に人影がないことを確認しながら、二人は身を隠しつつ進んでいった。
 一方、ユリンの方は、無事にリィをケムダーの元に送り届けていた。壁にもたれて一息入れる。
「さて、ナヴェのとこに行かないと……どこに行ったもんかな」
「三区の診療所」
 隣からの言葉に、驚いてノアの方を見る。
「なんで?」
「そう言ってた」
 そういえば、と、二人の妙な会話を思い出す。
「ここから診療所までの道、分かる?」
「うん」
 ぴょん、とノアが飛び上がる。数歩歩いて行って、彼は振り返った。
「こっち」
 ユリンも少年についていく。ノアが辿る道は、背の高いユリンにはやや辛いが、彼女は特に文句も言わずに少年の後を追う。
 三区に立つセラフの診療所は、夜中だというのに明かりが灯っていた。
 二人より早く、ナーヴェールとアツヤはたどり着いていたようで、アツヤは手当てをされた上でベッドの上に、ナーヴェールはとりあえず付き添いで、ベッドの傍に座って足を揺らしていた。
「彼の具合はどうなんです?」
 銃弾が掠めた頬にガーゼを当てられたユリンが、アツヤに視線を向けて尋ねる。
「背の傷は大したことはないが、血管が傷ついている肩の傷が酷い。出血もかなりしていたし、当分はここで絶対安静だな」
「そうですか」
 そう言うユリンの顔に表情はなく、アツヤが助かったことを喜ぶ様子も、苦々しく思う様子もない。
 そのとき、アツヤが目を開けた。ゆっくりと頭を巡らせ、ユリンを視界に捉える。
「は、疵物になったか、タオ」
「そう言う主さんは、死に損ないんさったなあ」
 開口一番、嫌みの応酬。
「おい、」
 軽傷者と重傷者が口論を始めそうになったところで、低いセラフの声が割って入る。
「あまり患者を興奮させるな、傷が開く」
「う、ごめんなさい」
 眉間に深く皺を刻んだセラフに睨まれ、ユリンは舌鋒を収めた。
「お前も喋るな。もう少し来るのが遅ければ、失血で死んでいたところだ」
 アツヤはのろのろと、うつ伏せのまま顔を埋める。黒い長い髪に遮られて、その表情は窺い知れない。
「あ、当分、ってどれくらいになりそうです?」
「一、二ヶ月といったところか」
「それじゃ、請求はそっちにお願いします。どうせ持ってるはずなので。あたしはこれで。遅くに失礼しました」
 外に出ると、夜気が肌を撫でた。
 普段なら何も感じない風。けれど今日は、それにさえ、血の臭いが混じっているような気がして。
 そんな思いに触発されて、脳裏にいつか見た光景が鮮やかに蘇る。
 梁に括りつけられた帯。輪になった一端に首をかけ、揺れる女。わずかな空気の流れでか、その身体が揺れるたびに、着物の裾が床をこする。
 重く溜息をついて、ユリンは四区へと足を向けた。
 その足取りは、心と同様に重かった。

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