鏡写しのクルチザンヌ 3
まずいなあ、と唇を噛む。
ユリンが今いるのは、三区の大きな通りを一本外れた、細い通り、その突き当たりだった。
目の前には、どう見ても荒事に慣れているらしい男。そしてユリンの喉元には、大振りのナイフが突き付けられていた。わずかでも動けば、間違いなく喉が裂かれる。
アツヤと会ってから一週間。とりあえず、これまで通りの生活を続けることに決めたユリンは、普段と少しも変わらない日々を送っていた。
始めの内は四区から出なかったのだが、何事も起こらなかったこともあり、買い物もあって、三区に出たのである。
住んでいる四区だけでなく、三区でも流しをすることの多いユリンは、必然、三区の住民にもある程度顔が知られている。
故に、時には絡まれることもあり、今回も、目の前の男に声をかけられたときは、また絡んでくるのだろうと思っていた。
それならそれで、上手く隙を見て逃げ、屋根でもつたって帰ればいい。そう思っていた。
しかしユリンのその考えは、今回に限っては甘かった。
のらりくらりと言い逃れるユリンに対し、いきなり男がナイフを突き出してきた。まるで何かのスイッチが入ったかのように、突然に。
かろうじて避け、逃げ出したものの、気付けばこの袋小路に追い詰められていた。
流石にこの状況では、異能を使って逃げるわけにはいかない。
(あの人だろうな、やっぱ)
今は四区を出ているのだ。アツヤが襲ってくる可能性は充分にあった。まさか、自分が出てこないとは思わなかったが。
(まあ、いつものやり方か。最後は出てこないで、結果だけ知る人だもんね)
小さくため息をついたとき、不意に鈍い音がした。男の身体が横ざまに倒れる。
呆気にとられるユリンの耳に、鋭い口笛が聞こえてきた。
その方向を振り仰ぐ。すぐ傍の小屋の、屋根の上から、くしゃくしゃに乱れた亜麻色の髪の少年が、顔を覗かせて手招いていた。
後の壁を駆け上がり、少年の傍に降り立つ。
「ありがと、ナヴェ。助かったよ」
「ん、ユリンは俺のひいきだからな!」
えへん、と胸を張る少年の名はナーヴェール。ここ三区に住む浮浪児であり、よくあちこちで使い走りをして、食い扶持を稼いでいる。
以前、ひょんなことから二人は知り合い、それなりに良い関係を築いている。
「なー、何で追われてたんだよ」
「うん、ちょっと絡まれてね。ほんと助かった」
「へへ。おやすいごよう、ってやつだ」
「あはは、じゃ、お礼に、どっか食べに行こうか」
「お、やった!」
そんなやりとりをして、二人が向かったのは三区の食事処・はるさめ昆布。
中に入ると、すぐに店員の愛想のよい挨拶が飛んでくる。
奥の方の席に座り、二人揃っておすすめのサバの味噌煮定食を頼む。
「そういや最近、急にいなくなる奴が増えてるらしいぜ?」
運ばれてくるのを待っていると、ナヴェが不意にそんなことを言い出した。
「急にいなくなる人?」
「ああ。特に最近ここに来たばっかのやつとか、どこに住んでんだか分かんないやつとかが、次々いなくなってんだよなー」
コンコルディアに来たばかりの人間、住所が分からない人間。
それにユリンは覚えがあった。以前、人を探しているというディシアから、探し人の条件として提示されたのが、先の二つに加えてもう一つ、急に変わった行動を取るようになった人間、だったはずだ。
「最近、ヘンなやつが人探ししてるって話だろ? あと、一区の方でも何かやってるみたいだし。ぶっそーだよなー」
ナヴェが唇を尖らせて呟く。
ちょうどそのとき、二人分の定食が運ばれてきた。
お盆の上には、つやつやと炊かれた米飯、煮汁がたっぷりと染み込んだサバの切り身、豆腐入りの味噌汁、ちょうど良い色合いに漬けられた香の物が並んでいる。
目を輝かせるナヴェにくすりと笑って、ユリンはいただきます、と手を合わせた。
こうしてきちんと並んだ膳は、遊郭を思い出す。とはいえ、内陸にあったからか、魚など、滅多に食べる機会はなかったのだが。
もぐもぐとサバを咀嚼しつつ、ナヴェの言葉を思い返す。
いなくなる人間が増えている、という話にも、ユリンは何となく心当たりがあった。
友人の一人、ラムの姿をこのところギムレットで見ないのだ。ギムレットの店主にぞっこんの彼女が、数日顔を見せていないのは、これまでなかったことで。身体の具合でも悪くしたのかと思いつつ、彼女の家を知らないユリンは、見舞いにも行けず、気にしながらも動けずにいた。
そんなユリンの思いを知ってか知らずか、ナヴェは指を折りながら、最近見ないという人物の名前を挙げている。
「スーリャと、ヴァンと、後……あ、あいつも見ないんだよな。最近来たっぽい、女男」
「誰、それ」
「見たことねーの? ここの店員が着てるのをもっと派手にした服着て、頭に何か、ほら、じゃらじゃらしたのつけた、女みたいなヘンな男」
「……」
ユリンは思わず黙り込んだ。ナヴェの言う“女男”にも、しっかり心当たりがある。
(なーに、やってんだか)
「あの女男、からかったら面白かったんだけどなー」
「……ナヴェ。その人がどうしてるか、生きてるのか死んでるか、探れる?」
突然のユリンの言葉に、サバを頬張っていたナヴェは、そのまま目を丸くした。
「あんれほんあほほ……しなくちゃいけないんだ? 俺、厄介事は嫌いだぜ」
「うん、その人さ、アツヤっていって、知り合いなんだ」
うーん、とナヴェが唸る。
「無理ならいいよ。あたしが自分で探る」
「無理とは言わねーよ。ただ、俺一人じゃきついから、手伝ってくれよ。あ、手伝った分、モノはくれるんだよな?」
「そりゃ勿論」
「よし、乗った!」
ナヴェが、にいっと笑う。ユリンも、目の前の少年に笑みを返した。
ユリン自身、ナヴェ一人に危険を背負わせるつもりはなかった。
主に浮浪児の間に顔の広いナヴェの人脈を、うまく利用できればと思っただけだった。
「なー、ユリン、あの女男と仲良いのか?」
「いや、全然。あたしあの人嫌い」
味噌汁を飲みつつ、ユリンはその問いに即答した。ナヴェが首を傾げる。
「じゃあ何で探るんだよ? ほっときゃいーじゃん」
当然の問いだ。ユリンも、何事もなければ放っている。
一瞬、ユリンは口の端に笑みを上らせた。皮肉気にも見える笑みだった。
「あの人にはね、聞かなきゃいけないことが一つ。あと、言わなきゃいけないことも一つ、あってさ」
ふーん、と気のなさそうな返事をして、ナヴェは残っていた米飯を一気にかきこんだ。
はるさめ昆布の前でナヴェと別れ、ナヴェに自分のねぐらの場所だけ伝えてから、ユリンは手早く必要な買い物を済ませ、四区の廃屋へ戻った。
廃屋の中には入らず、外側の壁に足を置き、そのまますたすたと歩いて壁を上る。そうして二階の窓から、屋内へと入る。
アツヤが階段を崩落させてからというもの、ユリンは専ら、自身の異能を利用して、壁を伝って出入りしていた。
アツヤは、今どうしているのだろうか。死んでいるなら仕方がないが、生きているなら会わねばならない。
彼のことは嫌いだ。妓楼にいた頃も、顔を合わせればアツヤはユリンを売女、淫売と罵り、ユリンは犬と蔑む、そんな関係だった。
それでも、今は彼の生死を確かめ、生きているなら会わねばならない。
どうしても、聞かなければならないことがあるから。
そんなことを思っていると、階下から猫の鳴き声が聞こえてきた。
どこからか、迷い猫でも入り込んだのかと思いながら下を覗くと、ナヴェが困った顔で立っていた。
「なー、これ俺どうやって上に行けばいいんだ?」
「ああ、ちょっとそこ退いて」
ナヴェが後ろに下がったのを見て、ユリンは二階から異能を使ってゆっくりと飛び降りた。
おおー、とナヴェが声を漏らす。
「便利なんだなー、異能って」
「そう? 手、貸して」
ナヴェの腕を掴み、重力を軽くして床を蹴る。大きく跳びあがった二人は、無事に二階の床に着地した。後ろでナヴェが再び感嘆の声を漏らす。
「知り合いに色々聞いてみたら、何人かは二区の廃墟にいるのを見たってさ。女男がそこにいるかは分かんなかったけど」
「二区、かあ……」
どこにいても物騒なコンコルディアでも、最も危険な地区。戦闘に関しては全く自信がないユリンは、二区はあまり訪れたことがない。せいぜい、見つからぬように気を付けて端を通り抜けるくらいだ。
だが、そこに彼がいるのなら、行かねばならない。
「あと、もひとつヤバいこと。一区の方で何かやってるって言ったじゃん、俺。もうちょっと聞いてみたら、さ」
ナヴェが言葉を切る。
「……一区の、神様信じてるやつらが、人、殺しまくってるって」
そう、と呟いて、ユリンは財布を探ると、いくらかの金をナヴェに握らせた。
「ありがとう、ナヴェ。これ、お礼ね。あと、やっぱ探らなくていいよ、危ないし」
むっとしたように、ナヴェが唇を尖らせる。
「やーだね。危ないったって、ここじゃどこ行ったって危ないんだ」
その目を見て、ユリンは一つため息を吐いた。
この目は知っている。決意を固めた目。今まで、幾度この目を見たことか。
自分が何を言っても、ナヴェは考えを変えないだろう。
「仕方ないなあ……。そんじゃ、二人で、やるとしますか」
「そうこなくっちゃ!」
ナヴェが意気揚々と飛び出して行く。ユリンはその姿を、二階の窓から見送っていた。
次の話