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鏡写しのクルチザンヌ 2

 女にとって、愛とは金で買うものだった。
 男に買われ、一夜の伽をし、その対価として金を貰った。
 上辺だけの愛をささやき、愛しいのは貴方一人だと大嘘を吐き、幾人もの男の相手をした。それが自分の仕事で、それ以外に生きる術はないと思っていたから。
 彼女を弄ぶ男がいた。彼女に惚れる男もいた。
 けれど、女の方では、誰も愛することはなかった。
 愛する意味が分からなかった。愛されていると実感したことはなかった。父親は顔も名も知らず、母親の構い方も、子供が人形にするような構い方だった。
 愛の言葉をささやいても、そこに実はないと分かっていた。
 女にとって、愛とは全てだった。
 実家は金持ちだった。藏には金が溜まっていて、夜毎に使ってくれと夜泣きしていると噂されるほどの。
 家が傾くことなどないと思っていた。信じていた。
 しかし、父が急逝した頃から、家運は傾いた。伯父が当主になり、その非才で多額の借金を抱えた。
 藏の金では足りず、家財を売り払ってもまだ足りず、一人娘は妓楼に売られた。
 毎日毎日、男の相手をするだけの日々。かつては眉をひそめて蔑んだ、妓女としての日々。光のない道を歩くような、真っ暗な日々。
 そんな毎日に、彼は光をくれた。
 その愛は、禁忌だと知っていた。許されないと知っていた。それでも、愛さずにはいられなかった。
 その愛が、己を破滅させることになったとしても。
 手紙が投げ込まれた翌日も、またその翌日も、ユリンの暮らしはほとんど変わらなかった。
 昼は気ままにそこらを歩き、夜は流しとして酒場を回る。
 手紙は一度だけでなく、二度三度届いたが、ユリンは気にしていなかった。皮肉陰口恨み言。そんなものには慣れている。これで傷付くような、柔な心は持っていない。
 それよりもむしろ、結ばれているものが、造花の枝から、どこから折りとってきたのか、本物の小枝になり、遂にはどこで摘んできたのか、一輪の花になったときには、その雑さに、ユリンは失笑を禁じ得なかった。
 だがこれで、相手がカグノでないことがいよいよはっきりした。
 手紙の内容は、変わらず恨み言ばかりだったが、ユリンにはそれもどうでも良く、一瞥した後は巣材にでもしろと、手紙は鼠に投げてやっていた。
 今日も手紙は届いていた。これで三日連続だ。二日続いたことはあったが、三日も続いたのは初めてだ。
 月灯りが差し込む床の上に、手紙が結ばれた枝が落ちている。この前は明らかにどこかから手折った花だったことを考えると、まだましな方である。
 手紙の見た目が、雑に結ばれているとしか見えないのは相変わらずだが。
 手紙を開いて中を読む。文面も変わらず、『恨みはらさでおくべきか』の一言。
 ふふん、と鼻で笑って、手紙を丸めて投げ捨てる。
「恨みがあるのは姐さんの方。主さんは、恨む権利もありはせん」
 あの人の性格を考えれば、こうして知らん顔を決め込んでいれば、早晩痺れを切らしてやって来るだろう。
 だが、それではつまらない。後手に回るのはつまらない。
(ちょっとばかし、おちょくってやろう)
 ユリンの口元に、人の悪い笑みが浮かんだ。
 翌日、ユリンは三区を訪れていた。幾つか店を回り、必要なものを買い整える。
 彼女が買ったのは、化粧品の一揃いと細々とした雑貨。
 所持金がだいぶ減ってしまったが、想定の範囲内だ。
 一旦ねぐらに戻って、身なりを整える。
 化粧をし、まだ売らずに持っていた装身具の中から、花と蝶を模した髪飾りをつける。化粧品と合わせて買った、小さな手鏡に顔を映して、姿を確かめる。
 ここまで装ったのは久しぶりだ。
 妓楼にいた頃は面倒にも思われたが、こうして今、自分のために化粧をし、着飾るのは、意外と気分が良い。
 夜を待って、外に出る。
 手には鉄笛を持っていたが、今夜のユリンは流しをする気はなかった。
 歩く一足ごとに、髪飾りの蝶が揺れ、飾りがチリチリと音を立てた。
 上機嫌のユリンは、足取りも軽く四区を抜け、三区に入る。
 歩く内に、前方に良く知っている人影を見つけ、ユリンの唇に微笑みが浮かぶ。
「スーズナっ」
 少し声を張って呼び掛けると、人影はくるりと後ろを振り向いた。足を急がせて、スズナに追い付く。
「ユリン殿、今日はどうかしたのでござるか?」
 普段と様子が違うユリンに、怪訝な顔でスズナが尋ねる。
 ユリンは口を開く前に、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「うん、ちょっと人待ち中。あ、そうだ、スズナ。この前はありがとね。おかげで助かったよ」
「む? 私が何かしたでござるか?」
「うん。おかげで幽霊を追っかけなくてすんだ」
「幽霊? よく分からぬが、役に立てたのならよかったでござる」
 笑うスズナを見てふと考える。彼女には、伝えておくべきではないだろうか。
 スズナがあの妓楼にいたのは、ごく短い間だけだ。だがその間に楼にいた者のことは覚えているだろう。そしてもしかしたら、向こうも彼女の顔を、完全ではなくとも、覚えているかもしれない。
 長く働いた者は、その長さゆえに人に覚えられる。しかしほんの少しの期間だけ働いていた者も、その短さゆえに、人によっては長く記憶に残しておく。
 そして色街の人間は、記憶力もいいが、蛇のように執念深い。客を逃さぬ執念が、その習慣にも出るのだろう。
「スズナ、これから時間、ある? ちょっと、話しておきたいことがあるんだ」
「え? でもユリン殿、人を待っているのでは?」
「ああ、いいのそれは。今晩は会えそうもないし。こっちの方が大事だし」
 さらりと答え、ユリンはスズナと共に、四区の自身のねぐらへと戻った。
 そうしてそこで、ユリンは友人にここ数日の出来事を全て打ち明けた。
「そんなことがあったのでござるか。しかしそれなら、ユリン殿は危ないのではないか?」
「何、あの人に、ほんとに人を殺す度胸なんかあるもんか」
 その言い方には、少しばかりものを吐き捨てるような調子が混ざっていた。それを言った後で、ユリンはちょっと考えて付け加えた。
「スズナは大丈夫だと思うけど、しばらくは気を付けて」
「うむ。ユリン殿も……」
「うん、ありがとう」
 にっと笑って答える。心配されているのは分かっていて、そのことが嬉しかった。
 そして更に時間は過ぎ、スズナもいなくなったねぐらで、ユリンは一人、笛を吹いていた。
 高く、低く、緩やかに、速く。笛の音は流れていく。
 それに混じって、木の板が軋む音が鳴る。
 間もなく、人影が一つ、部屋の入口に現れた。ガラスもない窓から差し込んだ月明かりに照らされたその顔を見て取って、ユリンは笛を離し、艶然とした微笑みを上らせた。
 その顔は、彼女の母に生き写しだった。
 やって来た人影は、黒い髪を結って、曼珠沙華の着物を着ていた。姿形は女に見せていたが、正面から見れば男であることがはっきりと分かる。
 その顔は怒りと憎悪で歪んでいた。ユリンを見て、その口から、激しい感情に任せた言葉が紡ぎ出された。
「タオ、貴様、よくもその笛を吹いていられるものだな、この、売女が!」
「おお、怖。芸事は、練習せな忘れてしまうよって、カグノ姐様にも言われましたからなあ。ちゃんと守っとるだけですえ。それにしても、主さんも変わりがのうて、何よりです」
 おっとりとした、字面だけ見れば穏やかな言葉を、ユリンは凄まじい皮肉を込めて相手に返した。
「黙れ、醜業婦(じごく)めが! お前のような淫売が、あいつの名前を口に出すな!」
 すいっとユリンの目が細められる。深い、暗い海の色をした目が、目の前の男を貫いた。
「ま、臆病な犬がよう吠えよること。うちのことをどうこう言うんは勝手やけど、主さん、アツヤさん、あんたかて、人のことは言えんはずやろ? カグノ姐様を、裏切って殺したんは、あんたなんやから」
 かつての”タオ”としての口調を崩さず、ユリンは言葉を詰まらせた目の前の男に向けて言葉を重ねる。
「せやからうちは姐様に言うたのに。アツヤさんに気ぃ許したらあかんよって。あの人らに恋したらあかんよ、それはうちらには許されてへんよって……それでも姐様は、主さんを信じとったのに」
「だが、カグノを殺したと言うなら、お前も同罪だ!」
 今度はユリンが、言葉に詰まる。だがそれも一瞬で、変わらず暗い青い目でアツヤを見ながら、彼女は口を開いた。
「……そう言われても、仕方ないんは分かっとる。でもうちに、何ができた? 何にもできんかったよ。なぁんにも」
 アツヤの顔の、憎悪が増した。
 月明かりに、白刃が輝く。一拍の後、廃屋に、金属のぶつかり合う音が響いた。
 ユリンを狙って突き出されたアツヤの短剣を、彼女は鉄笛で受け止めていた。
「ええこと、教えたげよか、主さん。この四区ってな、住んどる人は皆『家族』なんやって。せやから、誰かが傷付けられたら、それに対して報復する……過剰防衛、主さんも、聞いとるわなあ?」
 はったりも交えて、問いを投げかける。
 四区の性質が、過剰防衛と言われることはユリンも知っている。けれどそれが、来たばかりの自分にも適応されうるのかは、彼女には分からない。
 それでも今は、彼を引かせなければならない。
 一瞬、力を増した短剣が、ぱっと引かれる。苦虫を噛み潰したような顔で、アツヤは武器を収めた。
「それがよろし。ここのトップは、怖いお人らしいからなぁ?」
「なら覚えていろ、タオ。四区を一歩でも出たなら、そこがお前の墓場だ」
 憎々しげにアツヤが吐き捨てる。
 そのまま立ち去る彼の背に、ユリンは半分独り言のように言葉を投げかけた。
「階段降りるんやったら、どっか腐って――」
 木の裂ける音。驚きと恐怖の混ざった叫び声、ややあって、墜落音。
「どっか腐ってたはずやさかい、気ぃ付けや、って言おうと思ったんやけどなぁ」
 一人ごちて、部屋の外を覗くと、見事に階段が崩落していた。以前から木が腐りかけているのは知っていたので、彼女はできる限り階段を使わずにいたのだが、ここに来たのが初めてのアツヤは気付かなかったのだろう。
 辛うじて行きは支えきったが、帰りは支えきれなかったという訳か。
 見ていると、アツヤは身体を起こし、木屑を付けたまま、ふらふらと外に出て行った。大きな怪我はしていないようだ。
「ああ、めんどくさくなってきた。とりあえず、階段の修理費くらいは出してもらおうかな」
 寝床に戻って呟く。アツヤがここにいる以上、今まで通りの生活はできない。かといって、ユリンはアツヤに怯えて暮らすのは、まっぴら御免だった。
 とりあえず考え事は明日にしようと、ユリンは布団代わりの着物に包まって目を閉じた。

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