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鏡写しのクルチザンヌ 1

 鐘の塔の、地上から二十メートル付近のところにある展望の間。普段は人影のないその場所に、今、外を眺める人影があった。
 肩まで伸びる黒い髪。紅を引いた唇。黒地に赤と白で曼珠沙華を描き出した着物に身を包んだその人影の顔には、憂いの色が濃く浮いていた。
 昼の明るさは消えようとしており、沈みかかった太陽は、橙色の光を投げかけている。眼下に広がる町並みは、かつての繁栄の面影を残しつつも、各所に荒れたところが見える。都市を俯瞰するこの場所だからこそ、余計に目に入るのかもしれない。
「……やっと。やっと、ここまで……」
 怨嗟の籠もる声。にやりと笑う拍子に、白い歯が覗いた。
 決して快い表情ではない。どこか見る者をぞくりとさせるような、そんな笑みだ。
 くるりと身を翻し、人影は展望の間を出て行く。
「見ていなよ、タオ……」
 去り際に、そんな一言を残して。



 その夜、ユリンの姿は、ねぐらにしている廃屋にあった。
 今夜は新月。ユリンが仕事をしないと決めている日だ。
 異能を使って窓から屋根に上る。屋根に腰掛けて、思いきり夜気を吸った。
 頭の芯が冷える。
 笛を持ち、半目になったユリンは、そっと唄口に息を吹き込んだ。初めはただの音だったものが、やがて連なり曲となる。
 その曲は、普段ユリンが酒場などで吹いている明るいものではない。むしろその逆の、ごく静かな曲だった。
 この曲は、ユリンにとって特別なものだ。
 まだユリンが“タオ”として妓楼にいた頃、彼女には仲の良い妓女がいた。妓女としての名はインフア、本名はカグノ。
 艶やかな緑の黒髪は、滝のように流れ落ちてその背を覆い、対照的に肌は白磁の如く。
 濡れたように光る黒い目で見上げられ、艶やかに紅を引いた唇で口説かれれば、抗う男はいなかった。
 ユリンに芸事を初めとして、一通り必要なことを主に教えたのも彼女である。
 穏やかで、決して声を荒らげることはなかった。
 ユリンに鉄笛をくれたのも、その奏で方を教えてくれたのもカグノだった。
 しかし、今ではカグノは土の下の人間だ。新月の夜、ある事情から、彼女は自ら命を絶った。
 故にユリンは、新月の夜には流しをせず、こうして彼女のために一番初めに教わった笛を吹いている。
 新月の夜がいつもカグノの月命日、という訳ではないことくらい、ユリンも分かっている。しかし、妓楼にいた頃ならばいざ知らず、逃げ出してからは、正しい日付を知ることは難しくなった。
 だから彼女は、新月の夜をカグノの月命日と定め、こうして笛を吹いていた。
 そのとき、すぐ近くの建物の影、屋根の上からならちょっと目を上げれば見えるか見えないか、といった場所に一人、少年と見間違えそうな少女が、身を隠すようにかがみ込んでいた。
 四区の「臆病者」──カワード。
 彼女がここにいるのは、全くの偶然だった。
 どうにか今夜の糧を得て、住んでいる廃ビルに戻る途中、笛の音が聞こえてきたので、思わず足を止めていたのである。
 異能で姿も気配も隠しているカワードに、ユリンが気付くはずもなく、彼女は笛を吹き続ける。
 カワードには、音曲の巧拙は分からない。ただ、こんな都市で、楽を奏する人間が珍しかったのだ。
 不意に、何の前触れもなく、笛の音がやんだ。
 ユリンが、唇を唄口にあてたまま、じっと一つ所を見ていた。カワードのいる方を向いて。
 一瞬、どきりとしたが、ユリンの目はカワードを通り越し、更に後ろを見ているらしい。
 そっと後ろを振り返っても、誰もいない。ただ、夜の闇が降りているだけ。
(早く帰ろう)
 そう思って、カワードはその場を離れた。
 一方、ユリンは、笛を吹くことも忘れて、屋根の上で顔を強張らせ、じっと一点を見つめていた。
 ほんの一瞬、笛を吹きながらユリンは見たのだ。小さな灯りを手に持った人影を。黒地に鮮やかな曼珠沙華が描かれた、その着物を。
(……まさか。きっと見間違えただけ、うん)
 そろそろ寝ようか、と中に戻ると、ここに住み着いている鼠が数匹、ユリンの近くまで寄ってきた。
「あー、ハイハイ。家賃ね、家賃ですね、チュー太さん。分かった、明日三区に行くから、そのときにチーズでも買ってきますって」
 チューチューと鳴いている鼠にぱたぱたと手を振り、金網で囲われた寝床に潜り込む。掛け布団代わりにしているのは、一枚の薄手の着物。
 今ではあちこち汚れてしまっているが、元は白地に黒と赤で曼珠沙華を描いた着物だった。
 これは、カグノと色違いで誂えた着物だ。カグノは黒地を、ユリンは白地を。これがあるうちは、まだカグノと繋がりがあるような気がして、洋服を着るようになってからも、手放せないまま布団代わりに使っている。
 妓楼にいた頃は、幽霊という名前の自分にぴったりの着物だと、皮肉を零したこともあったが、今ではそれも、遠い日の思い出だ。
 軽く頭を振って、着物を身体に巻きつける。寝つきと寝起きは無駄に良いユリンは、十秒も経たない内に寝息を立てていた。
 翌朝、とはいっても、もう昼に近い頃。たっぷりと睡眠を取って、起き上がったユリンは、妙なものを見つけた。
 枝に結ばれた手紙。濃い緑色の葉と、白い五枚の花弁を持つ花が咲いた枝――おそらくは、橘を模したのだろう――は、どうやら作り物らしく、手紙も、ずいぶん不格好に結ばれていた。
 はてなと首を傾げる。花の枝に手紙を結んで渡すのは、ユリンがいた頃、色街で流行っていた風習だが、今のユリンには、手紙をやり取りする人間に心当たりはない。
 手紙を解き、開いて中を読む。恐ろしく読みづらい、金釘流の文字を見て、ユリンは少し顔をしかめた。
 ろくに読みもしないまま、くしゃりと手紙を丸め、隅に放る。造花の枝も、ちょっと考えて、ぽいと床に放り捨てた。
「さて、出かけますか」
 鉄笛と財布を持って、ユリンが廃屋を出たとき、すみません、と声がかかる。
 声をかけてきたのは、焦茶色の髪の、若い男だった。見覚えはない。
「はい?」
「オレはディシアと言います。今、コンコルディアで、人探しをしていまして。少しお聞きしたいことがあるのですが、構いませんか?」
 人探し、という言葉に、内心どきりとする。同時に、このところ、流しをしていて、耳にしたことを思い出した。
 最近、コンコルディアで、人を探し、情報を集めている人間がいる。
 もしやと思いつつ、顔だけは困った表情を作る。内心と異なる表情を作るのは、ユリンの得意とするところだ。その気になれば、例え憎悪する相手にでも、満面の笑顔を向けられる。
「うーん、あんまり時間がかかるのは、ちょっと困るんだけど……」
「いえ、それほど時間は取らせません。最近、変わった行動を取るようになったり、急に区に住みだしたり、住所が定まっていないような人間に、心当たりはありませんか?」
 少し目線を上げて、考えるふりをする。最も、言う言葉は決まっている。
「ごめん。分からないや」
「そうですか。失礼しました」
 ディシアの姿が見えなくなるのを待って、ユリンはそっと息を吐いた。
 ユリンがコンコルディアに来てから、まだ半年も経っていない。彼らの望む情報など持ってはいないし、仮に持っていたとしても、得体の知れない人間にそれを伝える気はなかった。
「っと、そろそろ行かないと」
 そもそもの目的を思い出し、ユリンは三区へと足を向けた。
 コンコルディアの商業地区とも言える三区は、相変わらずの賑わいを見せていた。早々にチーズとパンを買い、後は適当に辺りをうろつく。
 その途中、ある雑貨屋の前を通りかかったとき、ユリンはふと足を止めた。
 磨かれたショー・ウィンドウに飾られているのは、べっ甲の飾り櫛。半透明で赤みがかった黄色の、美しいものだった。
 値札は見えるところにはなかったが、それなりの値段はするだろう、とユリンは見当づけた。
 物の目利きは得意なわけではないが、妓女だったころは客から着物や装身具などを贈られることもあった。ざっくりとではあるが、価値を見当づけるくらいはできる。
 べっ甲は、ユリンの赤い髪には映えないので、あまり好んではいなかったが、それでも妓楼にいた頃は、二つ三つは持っていた。
 しげしげと、櫛を眺めていたユリンは、突然はたと目を見張って、その場に釘付けになったように立ち竦んだ。
 ウィンドウのガラスは、鏡のように反射して、辺りの景色を映し出している。
 その即席の鏡に映った人影を、ユリンは見た。櫛を見ていた自分の後ろを、通り過ぎた人影。
 黒地に曼珠沙華が描かれた、ユリンのものと色違いの着物。結い上げられた黒い髪と、揺れるかんざし。
 そのかんざしにも覚えがある。淡い桃色と、白い花弁との、二色の花を組み合わせたかんざし。それは、カグノのものだ。
 だが、彼女は、彼女だけは、ここにいるはずがない──。
 咄嗟にユリンはその人影の後を追った。それがカグノでないと、カグノであるはずがないと思いながらも、追わずにはいられなかった。
 人影はユリンの前を歩いている。黒い着物の襟は、その首元を覆い、ゆらゆらと、作り物の花弁が揺れる。
 暫く追っていたユリンだったが、昼時の三区は、食事のために店を探す人間も多く、彼女はとうとう人影を見失ってしまった。
 思わずため息が出る。同時に、何をしているのだろうかと自嘲を覚えた。
 重い気持ちを抱えたまま、ユリンは買ったパンをかじりつつ歩いていた。
 腹を満たしながら、落ち着いて考えてみると、カグノのように見えた、あの人影には違和感があった。
 が、どうにもその違和感が掴めない。
 そもそも、カグノは死人だということは一旦置いておくとしても、だ。あの人影を女だとすると、カグノだとすると、どこかがおかしい。何かが足りない。
 難しい顔で考える。が、分からない。
 結局午後中考えていたが、答えは出ず。四区のねぐらに帰る前に、どこかで流しをしようと、適当な居酒屋に足を向ける。
 その途中。
「ユリン殿?」
「うん? あ、スズナ! どこか行くの?」
 覚えのある声に振り返ると、綺麗に若葉色の色無地を着こなしたスズナの姿。偶然会った顔見知りに、ユリンも笑って答える。
「酒場で情報収集でござるよ。ユリン殿は……仕事でござるか?」
「そのつもり。スズナも気を付けてねー」
 二言三言、会話を交わして、それぞれの思う方向へ。少しずつ遠くなるスズナの姿を見ていたユリンの目が、ふと大きく見開かれた。
「そうだ、衣紋だ!」
 思わず叫ぶ。ぎょっとして、自分に集中した周囲の目など気にもせず、ユリンは傍の店の屋根へと飛び上がった。
「ユリン殿!? 衣紋がどうかしたのでござるか?」
「何でもない! ありがとう、スズナ!」
 そう大声で言いおいて、ユリンは四区まで、屋根の上を駆け出した。
 色無地姿のスズナは、色っぽく見せるためか、少し衣紋を抜いていた。カグノも、大きく衣紋を抜いて、首元を開けて着物を着るのが常だった。
 だが、あの人影は、衣紋を抜いていなかった──!
 異能を使い、ギリギリまで重力を軽くして、ほとんど飛ぶようにねぐらまで戻ったユリンは、朝方、放り捨てた手紙を探した。
 幸い、手紙は鼠どもに駄目にされることもなく、ユリンが捨てた場所に、捨てた通りに残っていた。
 手紙を広げる。
『恨みはらさでおくべきか』
 読みづらい、金釘流の文字。だがそれは、恐らく筆で書かれているせいだ。
 左斜めに傾いた書き方。かな文字も漢字も、同じ大きさで書く癖。やたら大きなはねとはらい。
 どれもユリンには覚えがあった。この書き方をする人間を、彼女は確かに知っていた。
「嗚呼、カグノ姐様の次は、うちの番ってこと。それも態々、影まで借りて。嫌ぁね、執念深い主さんは」
 ぽつりと零した呟きは、鼠だけが聞いていた。

前の話

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