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ユリン過去編 1

 屋根を叩く雨の音。
――逃げろ。
 喉の奥がひいひいと鳴る。胸が痛い。
――逃げろ。
 遠くから聞こえてくる、怒声。
――逃げろ。
 ちらりと振り返ると、三つ四つ、灯りが激しく揺れながら、追って来ている。
――逃げろ!!
 見えてくるのは、この地域を他から閉ざす、高い門と塀。そこに向かって、ユリンは思い切り屋根を蹴った。

 ゴツ、と鈍い音が、廃屋の一室で聞こえた。
「痛っ、たあ……」
 強かにぶつけた顔を押さえつつ、ユリンはしばらく、その場で身体を丸めていた。
 目尻に薄く浮いた涙を拭い、辺りの状況を確認する。
 ユリンは今、住処にしている廃屋の天井に丸まっており、彼女の身体には、寝床の周りに鼠避けとして置いていた金網と、布団代わりのぼろが何枚か触れていた。
 どうやら、寝惚けて自身の異能、“重力操作”を使ってしまったらしい。上手く操作できないまま使ったために、天井に激突する羽目になったという訳だ。
 その際についたのだろう、剥き出しの肌には、金網の先端が引っ掻いた細い傷がいくつか残っていた。それに気付くと、傷が存在を主張するようにずきずきと痛み出した。
 とりあえず金網と布を床に落とし、天井から壁、床へと移動する。
 ガラスも何もない、枠だけの窓から外を見る。まだ外は暗く、夜明けまでには間があるらしいと知れた。
 ごそごそと寝床を整え、再びユリンは擦り切れた毛布にくるまった。
 暗い天井を見つめながら、見ていた夢を思い出す。
 夢はあくまでも夢。それでもユリンは、似たようなことを、実際に体験していた。



 ユリンは妓楼の生まれである。どこの妓楼か、それは彼女自身も知らない。ただ、今いるコンコルディアよりも東の大国にあることだけは知っていた。
 ユリンの母は、楼の妓女の一人だった。さほど売れっ妓というわけではなく、それでもどこか惹かれるものがあったのだろう、時折母を求めてくる客がいた。
 母について、ユリンが一番よく思い出すのは、長く伸ばした暗い赤い髪を下ろし、香を焚いて、出窓にもたれかかって外を見る姿だった。
 そんなときの母は、ユリンが近寄ると、邪険に追い払うか、手招いて優しく抱くかのどちらかだった。
 ユリンは女の割に背が高いが、母も背は高かった。すらりとした肢体をいつも派手な着物で包み、艶然とした笑みを唇に浮かべていた。
 母は決して冷たくはなかったが、ユリンにはあまり構いつけようとしなかった。彼女にとっては娘の世話よりも、一人でも多くの客を取ることの方が重要だった。
 乳を含ませ、服を着替えさせ、時には抱くこともあったが、何せ生まれてから三日経っても、考える時間がないからと、名前を付けようとしなかったのである。
 ユリンの名は、それを見かねた当時の遣手が与えたものだった。幽霊(ユリン)などという、人の名前にはふさわしくないような名は、子供にそういった名を付けて災いから守る、遣手の故郷の風習から来ていた。
 本来なら、八つの歳に名を変えるのだが、ユリンは名を変えることはなかった。同じ年、遣手が病で亡くなり、新たに別の女が遣手となった。
 新しい遣手は、ユリンの名の意味など知らず、ユリン自身もその風習について詳しくなかったこともあり、彼女はそのまま、ユリンと呼ばれ続けた。
 ユリンの母はもう妓楼にはいない。ユリンが十三になった年の秋、前々から客として来ていた、さる大家の若主人に身請けされ、妻として嫁いでいった。
 ユリンの父は誰なのか、それは母ですら知らぬことだった。ただユリンと同じ、暗い青い目をしていた客がいたことは、母も覚えていた。ユリンが父のことを聞くと、母はいつも、その男だろう、と言っていた。
 故にユリンも父の顔は知らないが、それは珍しいことではなかった。ユリン以外にも妓楼生まれの子供はいたし、母親はともかく、父親の顔を知っている者など、ほとんどいなかった。
 妓楼で生まれ、妓楼で育った子供は大抵、ある程度物事が判断できるようになると、妓楼がどんな場所か知り、身請けでもされるか、死なない限りはここから出られないことを知り、自分の一生を見通してしまう。そして全てを諦めて、自ら妓楼に閉じ込められる。
 しかしユリンはそうではなかった。彼女も妓楼がどんな場所かを知り、この場所から出られないことを知った。
 それでも彼女は、諦めはしなかった。
 妓楼の外、人々が普通に暮らす場所、いつか自分もそこに行こうと、密かに夢見て暮らしていた。
 成長するにつれ、楽器を習い、歌を習い――これは五分と経たずに匙を投げられた――、踊りを習い、修行を積んでいく。それと並行して、客を呼ぶ手練手管も教えられた。
“タオ”の名で、ユリンが初めて客を取ったのは、十六になってすぐのことだった。
 好んで取った客ではない。それでも妓楼にいる以上、客を取らずにいることはできない。
 若く、顔立ちもまずくはなかったユリンは、すぐに人気の妓女になった。自由に外出こそできないが、それ以外には不自由らしい不自由のない暮らし。それは同時に、他の妓女からの嫉妬を浴びる暮らしでもあった。
 かつては姐さんと呼び、慕ってもいた妓たちから、露骨に妬みの視線を向けられる。部屋から出れば言いがかりをつけられ、陰口を叩かれる。
 そんな生活は、一年近く続いた。
 後三月で十七になろうという日の深夜。折しも外では雨が降っており、窓から見える範囲に人影はいない。
 珍しくその夜のユリンには客がおらず、彼女は一人、部屋で外を眺めていた。ちょうど、かつての母のように。
 部屋の扉には外から錠が下ろされ、外に出ることはできない。
 ユリンはいい加減、うんざりしていた。閉じ込められた今の暮らしにも、仕事にも、他の妓女からの嫉妬の目にも。
 窓を開け、湿気をたっぷりと含んだ外の空気を吸い込む。それはいたずらに外への憧れを掻き立てるばかりで、何の気晴らしにもならない。
(出て行ってしまおうか)
 こんな場所に閉じ込められているよりも、いっそ。
 それはこの一年近くで、幾度も聞いた甘い囁き。
 これまでは、気付かない振りをしてきた。けれど、気付かない振りなど、もうやめてしまおう。
 そう決めてからは早かった。
 なけなしの金を集め、客から貰った装身具の中で、高そうな、かつ持ち運びが容易いものを選び出し、まとめる。それから気が付いて、片時も手放したことのない鉄笛も一緒にまとめた。
 それから、持っている服の中で、一番動きやすいものに着替えると、ユリンは小包を帯で身体に括り付け、窓から身を乗り出した。
 壁に足がかりになるような場所はないが、ユリンはそんなことを気にもかけず、壁の側面に、ヤモリのように腹這いになった。
 こんな芸当ができるようになったのは、今から半年ほど前のことだ。
 初めてこのことに気付いてから、ユリンはこっそりと、実験を繰り返していた。思いつく限りのことを試して、ようやく彼女は、この妙な能力が、自分にかかる重力を操るものであることと、自分が触れているものにも、触れている間だけ、この能力の影響が及ぶことを突き止めた。
 今の全財産が入った小包を落とさぬようにだけ気を付けながら、屋根に上って一息つく。
 この妓楼がある地区は、妓女の脱走を防ぐために、むやみやたらに入り組んだ造りになっている。あちらこちらで交差し、折れ曲がり、遂には行き止まる。
 楼から逃げた妓女は、この複雑な道を走り、そして最終的には、正しい道が分からず捕まって、連れ戻されるのだ。
 しかしどこであろうと走れるユリンは、道を走る気などさらさらなかった。こんな時間に、女が、道を走っていれば、あっという間に脱走がバレる。
 少しでも見つかるのを遅らせたいなら道ではなく、別の場所を走ればいい。
 ユリンは口元だけで笑みを作ると、立ち上がって、濡れる屋根瓦の上を裸足で駆け出した。
 雨に濡れながらも、ユリンは声を上げずに笑っていた。
 屋根の上を、飛ぶように駆けて行く。誰もユリンの脱走には気付いていないのだろう。追手がかかった様子はない。
 色街と、外とを区切る塀が見えるところまできて、ユリンは困ったように足を止めた。
(遠い……)
 ユリンが今いるのは、この色街で最も大きな妓楼の屋根の上だった。屋根から降りて庭を突っ切り、妓楼の塀を越えてから、区切りの塀を越えて外に出るのでは、間違いなく、見つかってしまう。
(ここから、跳ぶ……?)
 区切りの塀までは、少なくとも、五メートルはあるだろう。自分にかかる重力を軽くして、助走をつけて踏み切り、重力のかかる向きを変えれば、壁に着地して、そのまま乗り越えられる。
 しかし、ユリンは壁や天井を歩いたことはあっても、細かい操作まではしたことがなかった。
 ごくりと唾を飲み、後ろを振り返る。未だに追手がかかる様子はない。
(生き地獄が良い? 自由が良い?)
 迷いを振り払うかのように、ユリンは両手で頬を叩いた。
 ゆっくりと後退り、呼吸を整える。
(三……二……一……!!)
 足を踏み出す。三歩で屋根の端に辿り着くと、ユリンは思い切り、屋根を蹴った。
 塀を越え、自由になったユリンは、とにかく遠くへ逃げることだけを考えた。色街の近くにいれば、すぐに捕まると考えてのことだった。
 妓女として習い覚えた芸事が功を奏し、逃げながらも、食べていく分には困らなかった。
 そんな生活を一年以上続けた後、ユリンはコンコルディアに来たのだった。



 夢のせいか、寝付けなかったユリンは、ぼんやりとここに来るまでのことを思い返していた。
 もう、あの場所に戻るつもりはない。戻れば、待っているのは地獄だと、ユリンは良く知っている。
 だが、ユリンにとって、故郷と言えるのは、あの妓楼だけだ。それを思うと、今でも悩むのだ。代わり映えのしない楼の中で年月を送るのと、明日の命も知れぬこの都市で生きていくのとでは、どちらが正解だったのだろう、と。

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