華の段-第二話
リキとの騒ぎから二日。昨日までの小春日和が嘘のように、空はどんよりと曇って今にも泣きそうだった。
天気がどうあろうとも、ここでの暮らしは変わらない。毎日が同じことの繰り返し。目新しいこともなければ刺激もない。
それはそうだ、とユリンは思う。傍の七弦琴を軽く爪弾くと、小さな音が鳴って消えた。
この場所は籠であり、檻なのだ。代わり映えするわけがない。
などと、取り留めもなく思っていたところへ、ひょっこりと、窓から顔が覗いた。
考え事とも言えないような思考が、それでふと断ち切られる。ぱちぱちと二、三度まばたいて、ユリンはようやく窓越しの人影を認め、思わずころころと笑い出した。
「なあに、また猫探し?」
えへへ、と窓の向こうで鈴が笑う。腕の中にはやはり白猫。
「あ、そうだ。甘いもの好き? 好きならあげる」
紙に包んだ何か丸いものが、つと懐に押し込まれた。
「生ものだから、早めに食べなね」
タオ姐様、と禿の一人が、何かの用で呼びに来た。とっさに鈴はさっと窓から離れ、どうしたの、とユリンは窓を背にして振り返る。
最後にまたね、と首を伸ばして囁いて、ユリンが部屋を出ていく。さらさらと、着物の裾が畳を擦る音が遠くなって消えた。
あとでもらったものを見てみると、それは最近売り出した菓子屋の饅頭だった。餡を包む皮の、もちもちとした食感が美味しかった。
それから、鈴はしばしば、屋根に登ってはユリンと語り合うようになった。アツヤとはひどく折り合いの悪いユリンも、彼の下についている鈴に対しては邪険に扱うことはしなかった。むしろ妓楼の外、花街の外の様子を聞きたがっていた。
鈴が外の様子を話すたびに、ユリンの青い目がきらりと輝く。そういうときの彼女は、妓女《タオ》ではなく少女《ユリン》だった。
正午から夕方までの昼見世が終わったあと、鈴はユリンに頼まれて、文使いに町へ出た。宛先は町でも有名な老舗の仏具屋〔白庵〕の主人、ジエンである。
ジエンに手紙を届けたあと、鈴は町の北に足を向けた。花街のある白羅の西町には、北部に胡宮と呼ばれる廟がある。
商売の神とされる胡子を祀る廟の近くには、茶店が何軒も出ている。鈴が入ったのは、そのうちの一軒だった。
「いらっしゃい」
片足を少し引きずりながら、内から店主が出てきた。
「連理楼のアツヤさんからです」
「へえ、じゃああんたあそこの若衆かい。茶くらいしか出せんがちょっと休んでいきな」
店主――アンキが懐かしげな笑みを浮かべ、鈴を奥に招じ入れた。
茶店の奥の座敷で、焼団子と茶をもらう。
「アツヤは元気にしてるかい?」
「はい。ええと、お知り合い、ですか?」
「ちょっと前まであそこで働いてたからな。アツヤとユリンは、あの二人がこんなガキの頃から知ってるよ」
こんな、と、アンキが手で示す。焼団子を頬張りつつ、鈴はふんふんと頷いていた。
「あの二人はまだ喧嘩してるかい? ああ、やっぱりな。あの二人、昔っから仲が悪いからなあ。ユリンは元気か?」
「元気そうですよ」
「そりゃよかった」
二人への土産にしてくれと、焼団子の包みを二つ受け取って懐に入れ、妓楼へ戻った鈴を待っていたのは、渋い顔のアツヤだった。
「タオを見なかったか?」
「いいえ。何かあったんですか?」
「そろそろ夜見世の時間だってのに、帰ってこないんだよ。まさかとは思うが、脱走じゃないかってな。鈴、お前も探す方に回ってくれ」
ぽつりぽつりと、灯が灯り始めた街を、若草色の着物が駆けていく。
「逃げたって、行く場所なんざないくせに」
アツヤの、口の中での呟きは、誰の耳にも届かなかった。
川のせせらぎが聞こえていた。『橋の下』、すなわち妓楼にも入れない女達が春を売る場所は、火の気もなくしんしんと冷える。
古い、今では使われていない橋の下に、壁代わりに筵《むしろ》を垂らして、ようやく部屋らしいものにしたこの場所にそぐわない花が一輪。
禿を連れての湯屋からの帰り、禿は殴りつけられ、ユリンだけ無理やりに、リキにここへ連れてこられたのである。彼女はここに来てから一言も口をきかず、リキと目を合わせようともしなかった。
「おい、ちょっとは愛想よくしねえか」
ぐい、と顎を捕まれ、顔をリキの方へと向けさせられる。首筋がずきりと痛んだ。
それでもユリンは黙っていた。
リキの右手が翻る。
「澄ましてんじゃねえ、売女が!」
頬をはられ、それでもなお、ユリンは一言も発さない。
連理楼のタオ。連理楼の中でも位の高い妓女の彼女が、初見の客に愛想よく振る舞うことなどまずない。
一度目は喋ることも、顔を上げることもしてはならない。二度目には膳を共に囲むことだけが許され、愛嬌を見せていいのは三度目からだ、と、そうしつけられていた。
乱暴に、敷かれた茣蓙の上へ突き倒される。
リキの手が、帯に伸びる。
(嫌だ)
客に抱かれるのは仕事だからだ。望んだわけではない。それしか道がなかった、それだけ。
客とも喜んで寝ているわけでもないというのに、こんな男と、どうして寝ようか。
自分がもっと自由な身であったなら。自分で、この身を縛るものを選べたなら。
ぐるん、と、世界が反転した。
気付けばリキを見下ろしていた。背には橋板が触れている。下ではリキが何か叫んでいたが、ユリンの耳には言葉として聞こえていなかった。
(何!?)
何かで吊り上げられた、というわけではない。感覚としては床に寝ているのと変わらない。そろりと身体を起こしてみても、特別何かが変わった様子はない。
「降りてきやがれ、淫売!」
リキの声を無視し、筵《むしろ》に手をかける。元々風化しかかっていた筵《むしろ》は、留めていた糸がぷつりと切れ、そのまま下に落ちる――のではなく、ユリンの手元に落ちてきた。
反射的に手を離すと、筵《むしろ》は下へ――ユリンから見て頭の上へと落ちていった。それがちょうどリキを直撃したらしく、怒声が聞こえてくる。
そこへ向かって、暗がりを物ともせずに、裾をからげた若草色の着物の影が走ってくる。月明かりに、その姿を見分け、橋板を這うように、少しずつ進んでいたユリンはすう、と息を吸った。
「リーン! こっち!」
「おい、この女《アマ》!」
夜目の聞く鈴も、不自然に落ちた筵《むしろ》と、橋板の裏の鮮やかな色を認めていた。
走りながら石塊を掴み、前方に仁王立ちするリキに投げつける。
牛刀で石塊を叩き落としたリキが、不意にふらりとなった。その肩口には、細い針が三本突き立っている。石塊を投げた後、間髪を入れず鈴が投げ打っていたものである。
針先には、大人一人をたちどころに昏倒させる薬が塗ってある。三本も刺されば耐えられるものではあるまい。
「大丈夫ですかっ!?」
「うん、でもこれどうやって降り――」
水音。一拍置いて、ユリンが身体を起こす。
そこへ、騒ぎを聞きつけた役人や、連理楼の若衆が何人か駆けてきた。どうやらユリンが湯屋に連れていた禿がようやく話せるようになったらしく、その訴えが伝わったらしい。
おかげで脱走の疑いは晴れ、妓楼に戻って聞き取りを受けたあと、ユリンは休むことが許された。
この夜以降、リキの姿も、その弟分の姿も、白羅の花街で見ることはなかった。
これまでの行状に加え、見世の妓女を拐かし、手篭めにしようとしたとあっては、彼も極刑を免れることはできなかった。
彼の処刑のときには、大勢の見物人が詰めかけたらしいが、それはまた、別の話である。