華の段-第三話
通り沿いに建ち並ぶ見世から、一夜を過ごした客がぞろぞろと出ていく。中には船宿で朝餉をしたためる者や、馴染みの妓女に門まで見送られる者もいる。
客が帰ってから、昼見世が開く正午までは、妓女たちにとってはいっときの自由時間だ。しかし楼そのものが休むわけではなく、見世で働く若衆らは、掃除のために見世の中を忙しく行き来している。
通りを行き来する物売りや文使いに紛れて、スズシロも通りを歩いていた。
少年はその格好だけ見れば、どこかの見世の若衆に見える。そのために、通りを歩く人々からは、別段気に留められることはなかった。見ない顔だとは思われても、余所は知らずこの花街で、新顔など珍しくはない。
そういうわけで、スズシロは誰に見咎められもせず、通りを行くことができていた。
笑顔を顔に貼り付けながら、怪しまれない程度に辺りに目を配る。
組織を抜け、故郷を離れた鈴菜らしい者を、この辺りで見かけたと聞きこんで、スズシロがここに来たのがおよそ二週間ほど前。街中での探索ははかがいかず、情報収集なら紅灯の巷は定石のひとつだったと、スズシロは数日前からこうして花街を探し歩いていた。
しかしそれらしい人影はいっかな見えず、こうなればいよいよ見世に上がるしかないかとスズシロは思い始めていた。
そうは言っても白羅の国いちの花街。一口に見世と言っても大中小と規模は様々ある。鈴菜がいるとはっきりしていないのに、やたらに上がるわけにもいかない。まずは聞き込んでみるべきか。
聞き込む見世の目星はつけていた。連理楼。花街でも一、二を争う大見世で、多くの妓女を抱えている。
人の流れに乗り、連理楼の前を通る。一階の、通りに面した張見世には、今は妓女の姿はない。ここに妓女が並ぶのは、もう少し後のことだ。
さて、そんなスズシロを面白そうに眺めている、二つの紺青の目があった。妓女が一人、妓楼の二階の自室から通りを見下ろし、少年に目を留めていた。
何処ぞの若衆にしては、外にいる時間がやけに長い。文使いにしては文を持っている様子もなく、物売りかと思えば今度は売り物がない様子。妓を買いにと言うならば、こんな早くに来るのはおかしい。
もしや以前に読んだ本に出てきた男のように、退屈で退屈で仕方がないのだろうか。それならそれで、見世が開いたらちょいと袖を引いてみようか、などと思っているうちに、少年の姿は人に紛れる。
正午から夕までは昼見世として見世が開く。昼から妓女を買う者はさほど多くはないのが常で、どこの見世でも妓女たちは、客のつかない者は、見世に出ながらも手紙を書いたり本を読んだり、あるいは芸事の稽古をしたりと、思い思いに過ごしていた。
夕近く、そろそろ昼見世を仕舞うころ、客が一人、若衆に送られて見世を出る。
挨拶を背に、何処かの坊っちゃんらしい若者は、とろりと顔を笑み崩して門の方へ向かっていると、反対から、若衆風の少年が、やや駆け足にやってきた。
と、少年が足をもつれさせてよろめき、その拍子に若者に軽くぶつかった。
「すみません」
一言を残して、少年が駆け去っていく。若者は苦笑しつつも咎めはせず、そのまま道を歩いていった。
その一瞬で、懐の財布が少年に渡ったことには気付かずに。
昼見世が仕舞われると、花街も少し静かになる。ただそれは外側だけで、見世の内では、妓女たちは食事をし、あるいは昼以上に着飾って、若衆は夜見世の準備に追われている。
日が暮れ始めると、ぽつぽつと軒下の提灯に火が灯りだす。点々と続く赤い色が、通りの両側を彩っていた。
一階の張見世には、艶やかに着飾った妓女が並び、客に指名されるのを待ち、あるいは自ら袖を引く。
連理楼ほどの大見世ともなれば、抱える妓女も数多く、格子越しに見えるその姿は色とりどりの花が咲いているようにも見える。
「タオさんに、お客様がお越しです!」
揚屋からの差紙を手に、風を切って駆けてきた若衆の少年がそう告げる。若草色の着物の尻を端折って、帯に白と緑の飾りをつけた少年から、伝言がさっと見世中に伝わる。
その言伝は間を置かずタオにも伝わっていて、彼女は道中の準備にかかっていた。
金糸銀糸で縫いとった、豪奢な衣装。金襴緞子の帯を前で結び、色打掛に袖を通す。仕上げに赤い髪に銀で花を創った簪を挿し、艶やかな夜の華が咲く。
「鈴、手ぇ、貸してな」
慣れた様子で、先刻客の訪れを告げ知らせた少年が、妓女が下駄を履くのに手を貸す。
高下駄を履いたタオが先頭、横に傘を持った鈴が従い、その後ろを、新造禿、若衆が付き従う。
白羅の更に東の国にある花街で流行っているという、足を外側に回すようにして、ちらりと素足を見せる歩き方で、妓女はしずしずと歩んでいく。
連理楼のタオといえば、高嶺の花で有名だ。ただでさえ大見世として格式高い連理楼で、幼い頃からみっちりと教育されて育った彼女は、若干十七にして見世の妓女の中でも五本の指に入る。
客も上客ばかりで、そろそろ身請けの話も出るのではないかと、巷では言われていた。本人も見合う客でなければ共に過ごそうとはせず、一度など、出すものも出さずに強引に迫った客が、ぴしりと扇子で叩かれて拒否され、それでも無理に抱こうとして、部屋どころか、見世から叩き出されたそうな。
そんなタオの道中とあっては、人が集まらないはずもなく、黒山の人だかりが垣を作っていた。顔を見られぬか、あるいはせめて、その着物の裾なりと拝めないか、その衣擦れの音でも聞けないかと期待して。
タオを喚んだのは、とある大家の長男である。この家は裕福な商家で、蔵には金が詰まっており、使ってくれと夜泣きするなどと口さがない人々は噂しあっていた。
そこの長男、オウリは、それまではとんと女に興味もない様子だったのだが、ひょんなことからタオを知って、どっぷりとはまり込んでいた。
三日とあげずに見世に通い、来るたびにたっぷりと包んでいく。夜だけでなく今日のように昼の見世にも訪れてはタオと過ごしており、いかに富裕の家だと言っても、あれではいつまで金が続くだろうかと、これも噂になっていた。
道中の目的地、客が待つ揚屋では、いくらか緊張した面持ちで、オウリがタオの到着を待っていた。
「若旦那、どうしたんですそんなに固くなって」
馴染みの太鼓持ちが、芸を披露しつつ訝しげに声をかける。いつものオウリならここでも賑やかに遊ぶのだったが、今夜は好きな酒もろくに飲まず、心ここにあらずといった風だった。
「大旦那に意見でもされたんですかい?」
「ん……ちょっと、な」
「まあまあ、もうじき太夫も来なさるでしょうから、そうしたらゆっくりお楽しみなさい」
そう話している内に、タオが着いたと先触れが入る。まもなく現れたその姿に、オウリはちょっと息を呑んだ。
髪色に合わせた赤い打掛には、手毬と扇が刺繍され、前で結んだ帯にも菊の刺繍が施されている。どちらも、養蚕と織物の国とされるこの白羅の、一流の職人の手によるものだろうと思われた。
結い上げた髪には瀟洒な銀の簪。花と蝶を象ったそれは、タオが歩くたびにゆらゆら揺れる。
異国の血が混じっているのだろうか、黒髪黒目、せいぜい焦げ茶の髪が主の白羅では珍しい、暗い赤い髪と、深い海の色によく似た瞳。
薄く白粉をはたき、目の縁をほのかに赤くぼかした粧《よそお》いが、彼女にはよくあっていた。
「夜も来てくだすったんですねえ。嬉しゅうござんす」
タオが、それまでの、つんと取り澄ました顔をふっと崩して、にっこりと愛想の良い笑みを見せる。
「若旦那。さ、一献」
するすると寄ったタオが酌をする手つきも艶やかに、白鳥徳利から酒を注ぐ。
楽が奏され、賑やかに、宴の席が幕を開ける。
宴席で舞をひとさし舞ったタオに、今度はオウリが酌をする。その間、タオの青い目は、じっとオウリを見つめていた。
「若旦那、今日は帰しませぬゆえ、お覚悟なさいませ」
冗談と本気と半々で、オウリに軽くしなだれかかる。男を上目に見る青い目は、底が知れぬほど深い色をたたえていた。
揚屋から妓楼に場所を移し、宴席はなおも続く。宴の間、タオは時折黙ってじっとオウリを見つめ、オウリはそのたびに酒を含むか、楽に合わせて待っている新造に目を向けていた。
深更に及び、オウリはひと足先にタオの部屋へと通された。最上位の妓女らしく、広い部屋には艶めかしい夜具がのべられている。
ようやく人目がなくなって、オウリはほっと息を吐いた。じっとりと浮いた汗を拭う。そこへ、密やかな足音が聞こえてきた。
萩の花を描き出した浴衣をまとい、髪を緩くまとめたタオが部屋に入ってくる。
「お待ちどおさま」
言いながら、タオがふっと行灯の火を吹き消した。
暗がりに沈んだ部屋。衣擦れの音。
背に柔らかな感触。骨がないのかと錯覚するしなやかな腕が、オウリの首元に絡みつく。
「ねえ」
囁きとともに、吐息が耳にかかる。ほのかに甘い白檀の香が、オウリの鼻腔をくすぐった。
一瞬、月光が雲に遮られる。部屋の暗闇が、その濃さを増した。
「一見さん、本当は、何しにお越しなはったん?」
するりとタオの腕を逃れ、二人が対峙する。
雲の切れ間から、月明かりが差し込む。紺青と黒色。四つの瞳が互いを見つめ合う。
はあ、とオウリがため息を吐いた。タオに背を向け、くしゃりと髪をかき回す。手が下り、向き直ったときには、そこにはオウリではなく、あの少年――スズシロが立っていた。
「いつから気付いてた?」
「最初から。……馴染みのお方のことでござんすもの。気付かぬ方がおかしな話でござんしょう?」
違和感はずっと持っていた。それでも相手の目的も正体もわからぬままで、下手に騒ぎ立てて他に害が及んではならぬと、タオは二人きりになるこの時間を待っていた。傍目には、オウリと仲睦まじく見えるように装って。そうすれば、大方の眼はタオに向く。いくらかオウリが普段と違って見えたとしても、それを気に留める者はいまい。
それに、馴染みの上客であるオウリをタオがもてなすことに、疑問を覚える者はまずいない。
夜の華は、たおやかに見えても強かだ。その強かさこそが、ここで暮らすのに要り用なのだから。
もしかしたら、いくらか自棄もあったのかもしれない。例えここで殺されたとしても、それならそれで檻から出られると。
スズシロがもう一度ため息を吐く。
「人を探しているんだ。鈴菜、という女だ。何か知らないか?」
「あら、嫌なぬしはん。もういろがいらっしゃるのに、こんなところで遊ばれるんでござんすか」
「違う、あいつは裏切り者だ」
思わず大きくなりかけた声を、ぐっと抑える。むっと口を尖らせる少年に、タオはにんまり笑う。
スズシロから“鈴菜”の背格好を聞いて、ふと、一人の姿が頭をよぎる。
“鈴菜”の背格好、歳の頃、それに人相は、ちょうど“彼”と似てはいないだろうか。
ぎ、と廊下で板の軋む音がした。
「さて、せっかくのお訊ねでござんすけども、そんな方は存じませんし、そんな方が来たような話もとんと聞きません」
その言葉は、廊下にも届いていた。最も、タオも声量は落としていたのだ。だからそれを聞き取れたのは、廊下で、棒を飲んだように立ち尽くしていた鈴が、人よりも鋭い耳を持っていたからに他ならない。
オウリの様子が普段と違うと言うのは、実のところ、若衆の何人かも気付いていた。
オウリがタオにすっかり入れあげているので、それに彼の父が苦々しい思いをしていると、街では噂が流れていた。それを知る何人かは、もしや若旦那は心中でもするつもりなのではないかと、顔には出さずに危ぶんでいた。
そうなっては大変だと、様子を見にやられたのが鈴である。
『あんたを買ったんじゃない。あんたの時間を買ったんだ』
聞こえてくる声は、確かによく知る少年のもの。
追いつかれては、もうこれ以上は留まれない。
抜けた忍は無事ではいられない。追手は決して自分を諦めることはない。
廊下で鈴が独り、眼を伏せたことは知る由もなく、部屋の中ではスズシロを布団に誘ったタオが、あっさり断られて呆れた目を向けていた。
「ぬしはん、ここがどこかご存知でござんしょう?」
「そりゃ知ってるよ。でも俺はあんたと寝るために来たわけじゃないし」
「……いやいや、あたしのお客になりすましといてそんなこと言う?」
堂々と言われ、思わずタオの口調が崩れる。
「今声上げたら、下から人が来ることやろな?」
窓を背に立って、笑みを含んで、視線を突き刺す。すう、と、スズシロの目が細まった。腕を組んで、とんとんと、少年は足を組み替える。
袖口に暗器は忍ばせてある。いっそそれを使って、と、そんな考えが頭をよぎったとき、それを読み取ったように、タオがふっと表情を緩めた。
「冗談。そんな野暮はしいひんよ。その代わりに――」
外の話を聞かせて欲しい。
耳元でそう囁かれて、スズシロは思わず憮然とした顔で妓女を見返した。
化粧と着物で装ってはいるが、その装いを落としてしまえば、おそらく彼女はまだ十代。
「あんた、いつからここにいるんだ」
「ん? 生まれたときから、ずうっとここ。外なんか、出たことないんよ」
いわゆる、籠の鳥。彼女にとっては、こうして客から聞く話だけが、唯一外を知る機会なのだろう。
「まあ……それでいいなら」
スズシロが語る、妓楼の外の話を、タオは目を輝かせて聞いていた。好奇心に彩られた顔は、妓として相手をするときよりも自然に見えた。
スズシロにとっては何気ない日常の話でも、タオには面白い話らしい。それで? それから? と相槌にも熱がこもる。
ちょっとしたことで、鈴を転がすような声で笑う彼女は、夜の華というよりも、自分とそう歳の変わらぬ娘だった。
結局二人はほとんど眠らないままに朝を迎えた。朝を告げる鐘が鳴り渡るのを聞いて、急いでタオがスズシロの変装を手伝う。外向きには、あくまで彼は“オウリ”だ。
「ぬしはん、またおいでやす」
妓楼から、花街と外とを区切る門のところまで見送りに出たタオは、艶っぽい笑みと共にオウリを送り出した。
人混みに、オウリの姿が紛れていく。一度瞬きしたときには、その姿はもう完全に、人なかに紛れてしまっていた。
連理楼から鈴の姿が消えたのは、それからまもなくのことだった。