華の段-第一話
昼下がりの窓の傍は眠気を誘う。文机にもたれかかってまどろんでいたユリンは、軽い足音にふと目を開けた。
はてなと首を傾げると同時、窓の外の黒い目と目があった。
「あ、」
慌てて踵を返そうとする相手を、ちょいちょいと呼び止める。
「すみません、お邪魔を」
「や、別に何もしてないからいいんだけど、楼《うち》の新顔?」
「はい、鈴《リン》といいます」
若草色の着物を着た少年が、白い猫を抱いたまま頭を下げる。立っているのは下屋の上、決して立つのにいい場所ではないはずだが、鈴は平気な顔で瓦を踏んでいる。
「その子は……この前誰かが拾ったんだっけ」
はい、と答えた鈴が、その顔をきりりと引き締め、次の瞬間、ユリンが止める間もなく下屋を蹴って飛び降り、くるりと宙で一回転して、無事に地面に降り立った。否、降りた、と見えて間もなく、翼でも生えているのかと思えるような速度で、鈴が駆けていくのがちらりと見えた。
ぽかん、と、ユリンの口が開く。
「韋駄天でも宿ってんの、あの子」
呆れたような語調ながら、ユリンは窓からいくぶん身を乗り出していた。
一方、抜け出した猫を裏庭の籠に戻した鈴は、そのまま妓楼の厨《くりや》に一散に駆けつけた。
「お呼びですか?」
降って湧いたように現れた鈴に、厨にいたアツヤが小さく頷いた。
初めの頃は鈴が現れるたびにあっけにとられていたアツヤだったが、時が経つうちに慣れたらしい。
とはいえ鈴の韋駄天の如き素早さは、若衆の間では語り草になっていた。何しろアツヤが呼べば、十数える間には目の前に立っているのである。もしや本当に韋駄天の化身か、それとも神行法を会得しているのかと、まことしやかに囁かれている。
数ヶ月前、見世先で起こった喧嘩に巻き込まれたアンキが、そのときの怪我がもとで見世を辞めたころに、それと入れ替わるように雇われたのが鈴だった。
この新入りの少年の面倒は、アツヤが見ることになった。カグノとの一件以降、輪をかけて寡黙になり、ことに妓女とは、本当に必要な最低限の語しか交わさなくなった彼を、ほとんどの若衆は遠巻きにしていたが、鈴は彼の物腰などには、いっこうお構いなしのようだった。そのせいか、幾分アツヤの人当たりが良くなったとも囁かれている。
「ちょっと遣いを頼めるか」
「お任せください!」
「んじゃ、いつもの問屋にこれだけ注文してきてくれ。……店は知ってたよな?」
「勿論です。では、行って参ります!」
元気に鈴が駆けていく。その姿がたちまち小さくなっていくのを、呆気にとられた様子で見送っていたアツヤは、軽く頭を振って、他の若衆見習いの少年たちにてきぱきと、掃除と妓女の用聞きの指示を出し、自分も仕事にとりかかった。
街に出た鈴は、やはりたったっと道を駆けていた。連理楼に食材を卸している問屋は、花街から五町(約五百メートル)ほどの場所にある。鈴の足ならば十分と経たずに行きつける。
宴席で使うらしい食材の一覧を渡し、搬入の手配を済ませた帰路、楼の表口が見えてきたころ、行くてから三人連れの男たちが顔を出した。腰に牛刀を差した色黒の男が、左右に狐顔のすらりとした男と、頭を丸めた中背の男を従えている。
何とも思わずすれ違った直後、後ろから、待て、と声がかかる。
一瞬、心臓が跳ねた。
「はい、何でしょうか?」
「お前、嗤ったな? 嗤っただろう?」
華やかさとは無縁の、荒ごと慣れしていると明らかにわかる顔が三つ、ずいと鈴に寄る。
「いえ、決してそのようなことは」
「いや嗤った。俺はちゃんとこの二つの目で見たぞ。お前、確かに嗤ったな」
「そうだ、おいらも見たぞッ。このリキの兄貴を見て嗤いやがったッ」
坊主頭の方が、きんきんと甲高い声を上げる。
リキ、の名を聞いて、周囲がざわめく。
鉄牛とも称される、このところ街で幅をきかせている無頼。強請りかたりは茶飯事、外食をすれば値を踏み倒し、こうして取り巻きを引き連れて乱暴狼藉を繰り返す。鼻つまみ者ではあるのだが、本人も腕っぷしが強く、下手をすれば腰の牛刀を抜いて振り回す始末。
リキはどうやらどこかの見世の若衆なり、お茶をひく妓女にでも因縁つけて、座敷に上がろうとでもいう魂胆らしく、たまたま傍を通った鈴を槍玉に挙げたものらしい。
「可哀想に、よりにもよってあんなのに目をつけられて」
「言いがかりもひどいぜ、あの若衆は笑いもなんにもしないのに」
野次馬がひそひそとささやきあう。リキの怒気を含んだ目つきが、ぎろりと周囲を一瞥した。
「すみません、急ぎますので、どうかお通しください」
「いいや、お前、どこの見世の奴だ。案内しろ。このリキが座敷にあがってやるのだ、見世いちの妓《おんな》を揃え、準備をしろと伝えろ。これから明日まで俺とこの弟分をもてなせば、先の無礼は勘弁してやる」
怒気を含んだ目のまま、リキが鈴を見下ろす。彼の注文は、道理に照らせば通じるものではないが、すでに彼は腰の牛刀に手をかけている。
身一つならば逃げればよいが、今は遣いの帰り道。しかしこの三人を案内しては見世の迷惑になる。
「どないしたん?」
人垣が割れる。
野次馬の向こうから涼やかな声を飛ばしたユリンが、赤い髪にさしたくちなしの髪飾りを小さく揺らしながら、ざわつく周囲を歯牙にもかけず、すいと滑り出る。
「どうもこうもない、そこの若衆が兄貴を馬鹿にして嗤ったんだッ! その詫びに見世へ通して座敷に上げろと言ってンだ!」
じろりとリキが、今度はユリンに目を向けた。ほう、と口元が緩む。
「こいつ、お前の見世の若衆か?」
「だったら何です?」
「お前、俺の相手をしろ」
ついとリキが手を伸ばし、ユリンの顎を撫でる。細めたリキの目に、蛇のような光が宿った。
ぱしん、と、打音。ユリンが、帯に挟んだ小さな扇子で、リキの手をはたき落としていた。
「連理楼のタオを誰《たれ》とお思いか。遊び相手が欲しいなら、玩具屋で人形でも買って遊ばれませ」
紺青の目が、リキの黒い目をきっと見据える。リキは、浅黒い顔を青黒くして目を吊り上げた。
「貴様、売女のくせして、何をいい気になってやがる!」
白昼の光が白刃を照らす。
「そんなもの出して、どないしはるんです。私の身体に傷でもつけようものなら、花街《まち》一帯、暗闇になりますえ」
静かながらも凛とした声で、ユリンが言い返す。牛刀など歯牙にもかけない。
その顔に傷でもつけようとしたものか、振り上げられた牛刀が、ユリンではなく、リキの足元へと突き立った。リキの手から滴り落ちた血が牛刀の傍へ吸い込まれる。
リキの腕には、小石ほどの鉄片が二つ三つ、肉に埋まるように食い入っていた。同時に取り巻き二人も同じ鉄片を受けている。これは白羅の東の島国にて、〈蹄〉と称する暗器である。生命を奪えるほどのものではないが、一度身に刺されば、容易に取れるものではない。
〈蹄〉を投げた鈴が、つとユリンを庇うように前に出る。
気付けば野次馬が増え、全員がリキとその取り巻きに視線を向けている。ち、と鋭く舌を打って、引き上げだ、とリキが左右の二人に告げ、荒々しい足取りで門の方へ消えていく。
ふ、と、ユリンが息を吐く。
「怪我は?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
「そっか」
良かった良かった、とユリンが一人頷く。じゃあね、と笑って、ユリンはほとんど足音を立てずに二階へ上がっていった。花が開いたようなその笑みに、知らず鈴の頬が熱をもつ。
「鈴ー、アツヤさんが呼んでんぞー。どうしたんだよ真っ赤な顔してさ、あ、さてはタオさんに惚れた?」
「何を油売ってんだ、二人とも」
鈴を見つけた若衆のハオランが、そう揶揄しかけたところへ、苦虫を噛み潰したような仏頂面で、廊下の角からアツヤが顔を出す。
「ハオラン、お前は張見世の掃除をしろと言っただろう」
「はい、今行きますって」
ぱたぱたとハオランが玄関横の張見世へ向かう。走んな、と尖った声を投げて、アツヤは仏頂面をますます深めた。
「災難だったな」
鈴に目を向け、いくらか仏頂面を和らげたものの、アツヤはまだ苦々しい顔を崩さなかった。
「鈴、タオに気を許すなよ。ここじゃそれは許されないぞ」
歯の間から押し出すような声だった。まだ赤い顔のまま、慌てて否定する鈴に、ならいい、とぽつりと言いおいて、アツヤは厨房の方へ歩いていく。そのあとを、鈴は小走りについていった。