一夜奇譚
丑三つ時の都市は静かだ。人気のない通りを、ユリンは自宅に向かって歩いていた。
ついさっきまで、ギムレットで流しをしていた。いつものようにリクエストに応えて、喜んでもらって、お金も弾んでもらえた。
酒場の喧騒はまだ耳に残っていて、その余韻がユリンの足を軽くする。
角を曲がり、少し歩いて――違和感。
(あれ?)
道に、人がいない。
怪しむことではないはずだ。昼日中ならともかく、今は真夜中。出歩いている人間の方が少ない。人がいなくとも、おかしなことではない。
なら、何をおかしいと思ったのだろうか。
(おかしいことなんて、ないよね?)
辺りを見回す。さては酔って道に迷ったかと思ったが、今日はそこまで酔うほど飲んでいないし、道も間違っていない。
だが、どこかおかしい気がする。
自分の息遣いが、足音が、やけに耳につく。自分が出す音だけが、闇に響いている。
周りを意識しないように、とにかく足を前に出す。けれど暗さのせいか、不気味さのせいか、気付けば辺りの様子を伺ってしまう。
(この道、こんなに長かったっけ?)
歩いても、歩いても、進んでいない気がする。
先は見えている。見えては、いる。だが、一向に近付く様子はない。
もしかしたら、道を間違えたのかもしれない。そう思って振り返ろうとして、誰かに肩を掴んで止められる。
ふりかえっちゃだめ。そう言う声は、力の割にどこか幼い。
こっち。腕を引かれる。
目の前にいる誰かは、暗がりでよく見えない。自分よりも背の低い――子供だろうか。
しっかりと見ようとしても、暗いせいか、ふっと見失いそうになる。
「ねえ、ちょっと、待って」
思わず声をかけるが、変わらず足は止まらない。聞こえなかったのかともう一度、今度は少し声を大きくして、待って、と声をかける。
それでも速度は緩まず、跳ねるような笑い声が聞こえてきた。
背筋がさっと寒くなる。きゃらきゃらと、笑う声が先よりもはっきりと聞こえた気がした。
【重力操作】で、走れない程度に重力を重くする。しかし、相変わらず誰かは腕をぐいぐいと引く。
だめだよ。そんな声がする。
どうしようか、と唇を噛んだとき、少し先に人影と、小さな朱い点が見えた。独特の匂いが鼻をつく。それと同時に、腕を引いていた力が消え、その拍子にユリンは勢いよくすっ転んだ。
クク、と笑い声が降ってくる。立ち上がりながら笑い声の主に目を向け、きょとんと眼を瞬いた。
「アラクネさん……あれ、一人、ですか?」
「何だ、ワタシが一人なのがそんなに珍しいか?」
そうではなくて、と首を振る。さっきは確かに二人いるように見えたのだ。アラクネと、その陰に隠れるように、もう一人。
「一人、ですよね」
「だから、そうだって言ってるじゃないか」
紫煙をくゆらせながら、アラクネが言葉を返し、次いで軽く眉を寄せる。ユリンの足首、黒いソックスで覆われているそこに、砂の色をした手形があった。
それに気付いた様子もなく、んー、とどこか納得がいかないように首を捻っていたユリンだったが、やがて、それじゃ、とその場を後にした。
その後ろ姿を、煙草を吸いながら見るともなく見ていたアラクネは、ふと、赤い眼をすがめた。
ユリンの背中に、小さな影がおぶさっている。赤子のようなその影は、ゆるりと振り向き――アラクネが瞬きした瞬間には消えていた。
(何だ、アレは)
きっと見間違いだろう。建物の影か何かが、錯覚を起こさせたのだろう。そう、自分を納得させる。
新しい煙草を一本取り出し、吸っていた方の煙草から火を移す。
認める気にはなれなかった。瞬きの直前、影が、まぁま、と笑ったように見えたなど。