舞台の裏で、黒子は踊る
桃花已経死了。没有必要捜索。 阿艶
――タオは死んでいた。捜索する必要はない。 アツヤ
アツヤはそう記した自分の文字をじっと睨みつけていた。自分が何をしようとしているかは分かっていた。そして、それが楼への裏切りだということも。
だが、こうするより他に道はない。タオも、そして自分も、あの妓楼に戻るつもりがないのならば、妓楼にいる理由そのものを、自分を妓楼に結びつける理由そのものを、失くしてしまわなければならない。
タオはいい。彼女はもう鳥かごの外にいる。妓女だったという過去が、未だにちぎれた緒のように、その足に結びついていても、その緒は何にも絡みはしない。だが自分は、未だに妓楼と結びついている。タオを追う、その一事で。
もともと自分は、彼女を追ってコンコルディアまでやって来た。見つけたら、殺すつもりで。だから、この手紙は、初めから妓楼に送られるはずの文なのだ。タオが本当は死んでいないだけで。
一つ息を吐いて、迷いを振り切るように首を振る。ウェルナーとナーヴェールが出かけるのを見送ったあと、アツヤも濃紺の着物に着替え、手紙を懐に家を出た。
身体の具合は、いっときよりも良くなっている。できるかぎり目立たないように、人気の少ない道を進んでいく。歩くうちに鮮やかな色が減っていく。
確かこの辺りだった、と廃屋の前に来て、眉をひそめる。相変わらず階段が崩れ落ちたままの廃屋には、人の気配がなかった。
「タオ」
呼んでみたが、返事はない。
「タオ!」
階段があった場所のすぐ近くまで、恐る恐る足を運び、大声で呼ばわる。それでも応えのないことに、アツヤは苛立ちをこめて舌を一つ打った。
(出かけているのか?)
少し冷静な思考を取り戻し、外から見られない位置を選んで座りこむ。三区から四区、この都市まで来るときの道筋に比べれば、大した距離ではないのだが、それでも身体は熱を持って火照り始めていた。
壁に背を預け、アツヤは低く口の中で毒づいた。
外を駆けて行く足音に、我に返る。どうやら少し眠ってしまっていたらしい。立ち上がると、背が鈍く痛んだが、火照りはましになっていた。
天井――あるいは二階の床――を睨むように見上げる。
アツヤの背は、同じ年頃の男と比べても、特別高いわけではない。階段の残骸までは、アツヤがその真下に行って手を伸ばしても、まだ三十センチは上にあった。
木が軋む嫌な音がして、アツヤは慌ててその場から離れた。さすがに床下に落ちこむのはごめんだ。
「タオ!」
ほとんど怒鳴り声で呼んでみたが、相変わらず廃屋の中は静まりかえっている。
「何かあったでござるか?」
入り口の方から不意に聞こえてきた声に、アツヤは反射的にその方を向いた。その勢いがあまり性急だったために、首がごきりと鳴った。それに顔を歪めつつも、声の主を確かめる。
袴姿の、黒髪の少女。
(どこかで見たような……?)
「あっ、お疲れ様です!」
「はあ!?」
記憶をたどる前に、思ってもみなかった言葉をかけられて、アツヤの思考は一瞬で霧散した。首の痛みを和らげるために手を当てつつ、痛みで険しくなった顔で少女――スズナを見る。
「いや、あった覚えはないが……」
「あぁ失礼、人違いでござった。ところで、この家に何か用があるのでござるか?」
「ああ、知り合いがここに住んでいるはずなんだが……。タオという女だが、どこにいるか知らないか?」
タオ。覚えのある名を聞いて、スズナは内心目を丸くした。タオ――ユリンから、アツヤが自分を追って来ていることは聞いていたが、自分が会うことになるとは思わなかった。
教えられた場所には、白いアパートメントが建っていた。エントランスの床には、白と黒のタイルが敷き詰められている。
動くのが辛そうなアツヤを見かねて、スズナが行きかう通行人に話を聞き、教えられたのがこの建物だった。
「おや、こんばんは。住人の方に面会かな?」
黒い礼装をきっちりと着た管理人が、二人を見つけて声をかける。噛み合わない挨拶に内心首をかしげつつ、まだ首の痛みが引かないアツヤは、首を押さえたまま無愛想に頷いた。
「赤髪の笛吹きがここに住んでいると聞いてきたが、会えるだろうか」
「何の用?」
アツヤの後ろから、すこぶる機嫌の悪い声が落ちてきた。驚いたアツヤがまた首を勢いよく動かしてこの日二度目の悲鳴を上げ、スズナも目を丸くしてアパートメントの外壁を見上げる。
ちょうど、エントランスのすぐ上の壁に、ユリンが良薬をたっぷりと飲まされた後のような顔で立っていた。その手に袋が下がっているところを見ると、買い物にでも行ってきたのだろう。軽い声と共に地面に降り立ち、ユリンはあからさまに嫌そうな顔でアツヤを見る。
アツヤもいよいよ顔をしかめ、懐から掴むように取り出したあの手紙を、ユリンの目の前に突き出した。
「これで文句はないだろう、タオ」
眉間に深くしわを刻み、手紙を読んだユリンは、怪訝な顔でアツヤを見、それからまた手紙を読み返す。
「熱でもあるの? それとも頭打ったかどうかした?」
「人をいかれたみたいに言うな! 俺はまともだ!」
「君がまともな頭でこんなこと書くの!? 嘘でしょ気持ち悪っ! ……あ、わかった操られてんでしょ、うん」
「だからまともだし操られてもないって言ってんだろが! 一応知らせておくべきだと思ったから来ただけで、そもそもお前のためじゃないからな、これは!」
「お主ら……仲がいいでござるな」
横で二人のやりとりを聞いていたスズナが、ぽつりとそう漏らす。
「こいつと仲がいいとかありえない!」
ユリンとアツヤ、二人の声がぴたりと揃う。ついでに、互いを指さしあって。こらえきれずにスズナが吹き出し、ユリンはしかめ面でアツヤから距離を取った。
「……で、ほんとにどういう風の吹き回し? あたしを連れて帰るんじゃなかったの?」
ユリンの部屋で、二人は向き合う形で座っていた。あのあと、さすがに邪魔になるからと、ユリンが――嫌々ながら――アツヤを部屋にあげたのである。スズナの方は、用があるからと、二人とは別れていた。
「どうせ何を言ったところで、帰る気はないんだろう。それならこうした方がいいと思っただけだ。それにこうすれば、楼もお前に追手は出さないはずだ。最も、俺の他にも追手が出されていたら、それは知らないがな」
瞬間、ユリンの手にした鉄笛が、アツヤの喉に突きつけられる。あたかも、刃物のように。
「……それだけじゃないよね。少なくとも、君があたしのためになる行動をしないってことくらいは良く知ってるよ。何が目的?」
喉元に向けられた笛の先を、アツヤは掴んでずらす。
「俺のためだ。……カグノがいない今、あの楼に戻ったところで仕方がない。だが、お前が生きている以上は、俺はお前を探さなければならないし、お前をあそこに連れ戻さなければならない。……お前が死ねば、俺はもうこれ以上、お前を探さなくていいし、死人を連れ戻すことはできん。それにカグノがいないあの楼に、カグノを殺したあの楼に、俺は戻るつもりはない」
それが真実、彼の言葉だと悟り、ユリンは鉄笛を下ろした。虫の好かない相手であることに変わりはないし、この先一生かけても好きにはならない相手だろうが、幼い頃から同じ場所で育ってきた相手だ。嘘をつくときと、そうでないときの見分け方は良く知っている。
「それはそれでいいし、あたしが言えたことじゃないけど、君のしたことは、楼主様を裏切ることになるんだよ。分かって言ってるんだよね? それに、向こうじゃ、あたしの脱走も、君が手引きしたことにするかも知れないよ。君は一度、カグノ姐様が逃げ出す手引きをしてるんだから」
「……思うことがないわけではないが、覚悟の上だ。俺はあの妓楼に骨を埋める気はない。カグノを殺した、あそこには」
「言っとくけど、カグノ姐様のことは、君にも責任あるんだからね」
「分かっている。……お前はこれからどうするつもりだ、タオ」
「いい加減その呼び方やめてくんない? ……そうだね。もし例の、異端者がもっと何かしてくるんなら、それがあたしの居場所や友達を脅かすなら、さすがに何かしようと思うよ。あたしは、ここにいたいから」
「ふん、まあお前でも、猫の手よりはましかもな」
そう言って、アツヤはぎこちない動作で部屋を出ていった。ユリンは不機嫌な顔で眉を寄せ、閉められたドアをしばらく眺めていた。