籠の段-第三話
逃げようと思った。彼女を連れて、この檻から。
それが単純な話ではないことを、アツヤはよく知っていた。ただでさえ、若衆と妓女の恋はご法度、そこに同じく大罪の妓楼からの足抜け(脱走)を重ねようというのだ。知られれば、命はない。
それでも、妓楼にいるままでは、先はない。
カグノと密かに恋仲になって、およそ一年。今のところ、それがばれている様子はない。とはいえ、焦りはあった。十五になり、妓女として“タオ”の名で客を取り始めたユリンが、二人の仲に感づいたらしいのだ。
昼、花街の西にある廟で会ったときのことだった。この辺りは、夜こそ下級の、見世の商品にはならぬとされた女たちが春を売ることもある場所だが、昼の間はほとんど人気はない。人目を忍んで逢うには良い場所だった。
帰り際、先に外へ出かけたカグノが小さく息を呑んだ。
廟の出口、細い窓の格子に、白い、くちなしの髪飾りが留められていた。
自然に落ちて引っかかるはずはない。明らかに人が手で留めたものだとすぐに知れた。
その髪飾りは先月、カグノが、十五になったユリンに買ってやった髪飾りに違いなく、それがここにあるということは、すなわち、ユリンがここに来たということだ。
さっとカグノの顔が青ざめる。
「楼に戻って、もし何か聞かれたら、疲れたから廟で休んでいたのだと言え。俺は少し後から帰る」
「ええ……」
消え入るような声で、やっとそれだけ言って、髪飾りを懐に、カグノが先に外へ出ていった。
残されたアツヤは、今すぐにでも楼に駆け戻りたいのをぐっと堪え、それでも落ち着きなく、廟の中を歩き回っていた。
ユリンはどこまで知っただろうか。
自分と同じ、妓楼しか知らぬ娘。だが、それゆえに、妓楼のしきたりには誰よりも通じている。
彼女は、楼主に告げるだろうか。きっとそうするだろう。
そう思っていたが、妓楼に帰っても、呼び出されることはなかった。日々の仕事をつつがなく終え、床に入るときになっても。
同じ夜、ユリンはカグノの寝間を訪れていた。妓女として客をとるようになったユリンだが、今日は客はついていない。そのためこの夜は、自由な時間ができたのだ。
今日はカグノにも客はつかず、それでいくらか、カグノの表情はほっとして見える。だがその奥に、どこか怯れの色を、ユリンは見ていた。
「姐様、今日はお帰りが遅かったけれど、何かあって?」
「いいえ。疲れたものだから、少し外で休んでいたの」
「そう」
「そうそう、あなたお宮に行ったでしょう。忘れ物」
手渡されたくちなしの花を見て、紺青の目が大きく見開かれる。行灯の火に照らされた、まだ子供らしさを残す顔が、きっと引き締まる。
「姐様。口無しは何も言わないの。言わなければ誰も知らないの」
謎のような言葉を言いおいて、くちなしの花をつと口元に当て、ユリンが静かに、滑るように部屋を出ていった。独り残されたカグノは、胸の前できつく手を組んでいた。
(知って、いる?)
決して言わぬということか、それとも黙っていろということか。
アツヤがその話を、カグノから聞かされたのは、翌々日のことで、そうと聞かされては、アツヤも黙ってはいられなかった。
カグノを連れてここから逃げようと、彼が決意したのはそのときだった。
「ちょいと、アツヤ」
焦ってはいても、日々の仕事をおろそかにするわけにはいかない。
二階の掃除を終え、箒を片手に廊下を歩いていたアツヤを、妓女の一人、シーリウが呼び止めた。
シーリウは二十、五、六。焦げ茶の髪を大きく結い、十代の娘のような化粧をしている。
「何です?」
答えるアツヤの声はいくらか尖っている。
「そんな顔をおしでないよ、全く。まあ、それはともかく。ちょっと手紙を書いとくれな」
「俺がですか?」
「朝から手が痛むのさ。いいだろう? あんた、字が綺麗だもの」
渋々シーリウの座敷に上がり、言われたとおりに筆を執る。部屋の中には甘い香が焚かれていた。思わず鼻にしわを寄せる。
『今夜過ぎて、また今夜。天に花咲き、地に実のなるとき、西方の浄土にて、我を待つべし、あなかしこ。』
客に送るには奇妙な文面だったが、これも手管のうちなのだろう。
「ありがとう。ああ、もういいよ」
「それじゃ」
去っていくアツヤの足音を聞きながら、シーリウはふっと、口の端に歪んだ笑みを浮かべた。これをカグノに渡すか、あるいは楼主の前にでも落としてみれば、いくらか胸がすくことだろう。何も変わらぬ、籠の鳥の暮らしでも。
部屋を出ても、しばらくは香の匂いがまとわりついているような気がして、アツヤの顔からはしかめ面が消えなかった。
もともと、ユリンとは馬が合わなかったアツヤだが、妓楼で長じていくうちに、段々と他の妓女のことも疎ましく思うようになっていた。
それは、もしかしたら母への反感もあったのかもしれない。アツヤの母も妓女だった。もうこの妓楼にはいないが、身を売ることを止めたわけではなく、今でも茣蓙を片手に春をひさいでいるらしい。
母はアツヤを見るたびに、お前など産まなければよかった、と口癖のように、さも憎さげに言うのだった。まだ気まぐれでも、ときには娘を構うユリンの母の方がましに見えていた。
あるときに、産まれたときに、石でも付けて沈めてしまえばよかった、と、そう吐き捨てるように言われたこともあった。アツヤが妓女に対して嫌悪を覚えるようになったのは、おそらくはそれがきっかけだった。
さて、この日から、アツヤは人目を盗んで、少しずつ着物や路銀の足しになりそうなものを、少しずつ西の廟に運び込んだ。
十日ほどで準備は整った。後は新月の夜を選んで、夜陰に紛れてカグノと共に逃げるつもりだった。
ちょうど新月となるその日、アツヤは楼主の遣いで遠出することになっていた。何とかカグノさえ抜け出して廟まで来られれば、あとはそのまま二人で逃げようと言い交わしていた。
カグノがうまく抜け出して来られるのか、それだけが気がかりだったが、それについては彼女にも考えがあるらしく、何とか気付かれずに廟まで向かう、と言っていた。
だがその夜、妓楼に戻らず、まっすぐに遣い先から西の廟へ向かったアツヤが見たのは、誰かが中で暴れたかのように荒れた廟だった。
さっと血の気が引く。
このまま、自分だけでも逃げ出したい。そう思っても、足は妓楼に戻っていた。
裏口から楼に入るなり、有無を言わせず彼は他の若衆に蔵へと連れ込まれた。
そこからは延々と折檻が続いた。細く割いた竹で打ち叩かれ、見世が引けるころには、アツヤは血だらけになって、蔵の床上に転がっていた。
こうなることは覚悟していた。むしろ死んでいないだけましだろうか。見世の妓女に手を出したわけだから、普通なら殺されている。
身体の痛みで動くこともままならず、床に額を押し当てるようにしてじっと堪える。
重い音。蔵の戸が開く。
「起きてるか」
膏薬と包帯、握り飯を持って、アンキが蔵に入ってきた。アツヤの傷に膏薬を塗り、包帯を巻く。
「まさかお前が、妓の手管に引っかかるとはねえ。……それとも、そんなに惚れてたのか?」
「……」
「覚悟の上かい」
「……イン、フア、は」
「……死んだよ」
「…………え?」
「行灯部屋に閉じ込められてたんだがな、帯で、縊《くび》れて死んだよ」
ふと、アツヤは奇妙な感覚を覚えた。天井近くから、自分とアンキを見下ろしているような。
「インフアがたぶらかしてほだしたんだってな。お前が引っかかるとは思わなかったと、楼主様も言ってたよ。持ちかけたのはインフアらしいし、今回だけは目をつぶるそうだ。……アツヤ?」
アンキの声が、ひどく遠く聞こえた。
夜見世の後、カグノが逃げ、そして捕まって連れ戻されたことは、すぐに楼中に広まっていた。だがこの夜は、どういうわけか、連理楼には客が多かった。
ほとんどの妓女に客がつき、若衆もカグノの捜索と客のもてなしに大わらわだった。禿や年少の若衆見習いも、宴のもてなしに駆り出され、その騒ぎの合間に、西の廟で息を潜めていたところを捕まったカグノが、行灯部屋に閉じ込められていた。
行灯部屋は文字通り、普段は行灯をしまっておく部屋だ。日頃使われることは少ない。
「姐様?」
声を低め、辺りに他人の目がないことを充分に確かめてから、ユリンは行灯部屋にそろりと忍び込んだ。
「ユリン? どうして……?」
しっ、と指を立てる。
「あたしも怒られちゃう。でも姐様――」
思い切って、カグノがユリンの手を掴んだ。冷たい手が、懐から出した手紙を握らせる。
「お願い、誰にも見られないように、これを焼いてしまって。全部私が悪いことにするから。そうしたら、あの人は死なないですむでしょう?」
「姐様、それは……!」
全て背負うというのか。
確かに、カグノがアツヤをたぶらかしてそそのかし、無理矢理に脱走の手助けをさせたということになれば、彼は折檻こそされるだろうが、命は助かるかもしれない。
ユリンが二人の仲を察してから一年、アツヤも無事に勤めていることからして、二人の仲も、ユリンを除けば誰一人、妓楼で知る者はいないらしい。
「お願い、私のことはいいの。あの人が生きているなら、私はどうなったって構わないの」
人が来るから早くお戻り、と、廊下に押し出される。
手紙を懐に、部屋に戻る。見つからぬよう、行李の奥にとりあえず手紙はしまいこみ、そこへ、禿の一人が、宴席に出るようにと言いに来た。
それから見世が引けるまでは、文字通り息吐く暇もなく、宴席に酒を運び、客をもてなし、楽を奏し、あるいはひとさし舞ってみせる。
ユリンが後になって思い出すと、この日が一番忙しい日だったと言ってもいいくらいだった。彼女に客がつかなかったのは、ほとんど奇跡といってよかっただろう。
その騒ぎを聞きながら、カグノはするりと帯を解いていた。
もとより、無事に済むとは思っていない。聞こえてくる慌ただしさから察するに、今夜は相当繁盛しているようだ。それで折檻が遅れているのか。
襦袢を留めていた腰紐を解き、輪にしたそれを格子窓にかけ、首を入れる。
散る間際、花は、ごめんなさい、と、誰にともなく呟いた。
てんてこ舞いの夜見世が終わり、ユリンはもう一度、どうにか人目を盗んで行灯部屋へ向かった。懐には、こっそり調理場からくすねてきた握り飯をいれてある。
静かに襖を開け、中をひと目見て、雷に打たれたような衝撃に襲われた。
窓の格子に紐をかけ、カグノが壁によりかかるように座っていた。その首の紐がなければ、眠っていると思えただろう。
「ねえ、さま?」
そっと近付いて、口元に手を持っていく。震える手には、何も感じられなかった。
口を開き、とっさに手を噛んで、声を殺す。
自分がここに来たことは、誰にも知られてはならない。
足を動かして、部屋を出る。ユリンが二階の、狭い座敷に戻ってすぐ、階下からざわめきが聞こえてきた。
それを聞きながら行李を開け、手紙を取り出す。
『今夜過ぎて、また今夜。天に花咲き、地に実のなるとき、西方の浄土にて、我を待つべし、あなかしこ。』
内容よりも、その筆跡に、ユリンは目を奪われた。知っている。この筆跡が誰のものか、自分は知っている。
(……許さない)
あれほど愛を囁いていたくせに、弄んだだけだったのか。カグノの気持ちを知って、そうして騙したのか。
胸の奥で、怒りが燃える。
ユリンは丁寧に手紙を畳み、行李の奥へと再びしまい込んだ。
たとえどれほど自分が彼を憎く思っても、カグノは彼が生きることを望んでいる。そして、秘密を守ってくれる人間だと思ったからこそ、頼みを聞いてくれると思ったからこそ、この手紙を自分に渡したのだ。
それを裏切ることはできない。カグノを裏切ることはできない。
これまで、幾人もの妓女を見てきた。多くが、客をとることばかりを考えていた。自分の不自由さに苛立ち、禿として世話をしていたユリンに当たり散らす者もいた。
けれどカグノは違った、人が喜べば自分も喜び、人の悲しみに胸を痛めた。芸事の腕を磨き、そのせいで陰口をきかれたユリンに対しても、ただその腕を褒めてくれた。妓女になり、たちまち売れるようになったユリンに対して、タオ、とそっけなく呼ぶようになった他の妓女とは違い、二人きりのときは先のように、ユリン、と優しく呼んで、何か困ってはいないかと、いつも気にかけてくれた。
妓楼の暗い部分も、嫌というほど見てきたユリンにとって、カグノは陽だまりのような存在だった。
アツヤが惹かれたその部分に、ユリンもまた惹かれていたのだ。
階下では、どうやらカグノの無残な姿が見つかったらしく、客を起こさないよう忍び足に、しかし忙しなく、人が行き来しているようだった。
それを聞くともなく聞きながら、ユリンは行李を元あった場所へしまい込んだ。
寝巻に着替える途中、はらりと布の間から紙が落ちた。逃げる前に書かれたのか、紙上には細い、いくらか震えた文字が、びっしりと書き込まれていた。
『ユリン
今まで優しくしてくれてありがとう。もしも私が死んでも、どうかアツヤさんを責めないであげて。あの人に責はありません。
それと、一つ、頼めるのなら、どうか、私の銀の簪を、家族の元へ届けてください。北の林果《リンカ》の村で、ナデンの家と聞けば分かるはずです。
あなたに何もしてあげられなくてごめんなさい。アツヤさんとあなたがいたから、私は折れずにここで暮らしていけました。
どうか、私の我侭を許してください。
カグノ』
こみ上げてきた嗚咽を必死で押さえ、手紙と、カグノの銀簪を、一度片付けた行李を引き出してしまい込む。
このときほど、自分が無力だと思ったことはなかった。
きっと、もっとできることはあったはずだ。黙っているとだけ決めて、結局は自分に累が及ぶのが嫌だっただけではないか。
はらはらと、手紙の上に紅涙が落ちる。墨で書かれた文字は、たちまち滲んで読めなくなった。