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鳥の段-第一話

 白羅は朝から雨だった。朝のうちこそしとしとと、しめやかに降っていた雨は、夕にはざあざあと、車軸を流すように降っていた。
 そろそろ夜見世が始まる。いつもどおり、化粧をし、豪奢な着物をまとう。
 揚屋から、オウリが待っている、と連絡があった。それを聞いて、ふと、白い顔が曇る。
 オウリが嫌い、なわけではない。だからといって、彼を好いているわけでもない。そもそも、客に好きな相手などいない。
 カグノが客をとるのを疎んでいた気持ちが、今なら少し分かる気がした。
 姐様、と、禿が呼びに来る。
「はあい」
 最後に、最近気に入っている曼珠沙華の簪を差し、一階に降りる。
「遅いぞ、タオ。もっと早く用意をしないか」
 アツヤの小言はいつものことだ。いつものように聞き流して、高下駄を履いて外に出る。
 篠突く雨の中、ゆるりと艶やかな花が行く。
 天気は悪いが、道中が始まったとなれば、雨など物ともせずに人が集まる。その顔を、姿を、せめて着物の裾なりと拝みたいと。
 雨でどこか滲んで見えるせいか、しずしずと進む道中の列は現実感を伴っていない。
 揚屋についた後、ささやかな宴席が設けられる。芸を見ながら、いつになくはしゃいだ様子のオウリに、ユリンは胸の内で首を傾げた。
 今度は他人が化けている様子ではないが、いつもよりも羽目を外しているように見える。
「若旦那、何ぞ良いことでもありましたか。今日はずいぶんご機嫌がよろしいように見えますえ」
「それは後の話だよ、タオ」
 くい、と腕を引かれる。オウリにもたれる姿勢になったまま、ユリンは上目遣いに彼を見上げる。
「なら若旦那、今日は楽しんでおくんなんし」
 にっこりと笑みを刻んで、オウリの盃に酌をする。とろりと笑み崩れ、オウリは酒を口に含んだ。
 揚屋から楼に場所を移し、宴は尚も続く。
 オウリに頼まれ、ユリンも舞を舞う。〈鴛鴦〉という曲に合わせて舞い終えると、わっと周囲から拍手が起こった。
 宴席の後、自分の座敷に行く。待っていたオウリは、それまでと違い、やけに硬い表情になっていた。
「若旦那――」
 言い終える前に抱き寄せられ、そのまま、行灯の陰で、肌を重ねる。
「ねえ、タオ、私を愛してくれているかい?」
「ええ、こんなこと、するのは、若旦那だけですえ」
 白い腕を、オウリの首に巻き付ける。
「なら、一緒に死んでくれるね?」
 きらりとオウリの目が光る。
「若旦那?」
「父がね、私があまりここに通うからと、私を胡都《コト》にやると行ったんだ。胡都に行ってしまえばもうお前には会えない。それなら今夜、心中してしまえば、もう誰も邪魔はできないものね、だろう?」
 胡都《コト》は花街からずっと南にある町である。
 まあ、とばかりに目を丸くしたユリンの眼前に、オウリは剃刀を出してみせた。
 本来ならこういったものは持ち込めないはずなのだが、どうにか隠して持ち込んだのか。
 剃刀の刃が、火影を映してきらりと光る。
 外から聞こえる雨音が、その激しさを増した。
「若旦那。二人だけでも、盃事をしないんじゃあ、嫌でござんす」
「ここで?」
「だって最期でござんしょう? すぐに支度は終わりますから、待っていておくんなんし」
 そっと廊下に出て、階下に降りる。足音を忍ばせて厨に向かい、冷えた酒を白鳥徳利に詰める。
 妓女が客のためにこうして酒を汲むことは、実のところ全くないことではなく、厨にユリンが入るのを見たハオランも、客に頼まれたのだろうと思っただけだった。
 棚から壺を取り、中の粉をひと匙、ふた匙と、徳利に入れる。軽く徳利を振って、盃とともにそれを抱えて座敷へと戻った。
「お待ちどおさま。さ、若旦那」
 隣の部屋から色打掛を羽織って戻り、オウリが差し出した盃に清酒を注ぐ。
「タオ」
 オウリが徳利を取り、ユリンの持つ盃に酒を注ぐ。
 目と目を見交わして、盃を傾ける。
 ごくりとオウリの喉が動き、その手から盃が落ちた。とろんとした目がユリンを捉えかけ、そのまま床に伏せる。
 含んでいた酒を吐き出して口元を拭い、ユリンは素早く立ち上がった。
 彼女が酒に入れたのは、紅蓮《こうれん》の実から作った粉である。料理によく使われるこの粉は、酒に混ぜると酔いが回るのを早める効果がある。
 元々オウリは今日、酒を過ごしていた。あまり褒められたことではないが、駄目押しで酔い潰してしまえばとにかく今夜はしのげるだろうと思ったのだ。
 本来なら誰かに知らせ、オウリを行灯部屋かどこかへ移してもらうのが筋だが、ユリンは少しの間、雨の音を聞いていた。
 オウリのことは嫌いではない。だが、心中するほど愛してもいない。
 そもそも心中は白羅でも大罪だ。死んでも弔いはされず、生き延びたとしても生涯囚人として刑を受けることになる。そうまでして心中したいとは思わない。
 雨音。窓を開ける。灯りらしい灯りは見えない。
 ふ、と、息を吐く。
 疲れた。何に、というわけではないが。
(出て行ってしまおうか)
 こんな場所に閉じ込められているよりも、いっそ。
 大罪だ。そんなことは分かっている。だが今なら、誰も見てはいない。
 静かに部屋を出て、隣の納戸に入る。
 貯めていた金の入った財布と、客から貰った装身具の中で、高そうな、かつ持ち運びが容易いものを選び出し、一番得意な鉄笛と、行李の底から取り出した小包をまとめる。
 小包を身体にくくりつけ、寝間着の裾をからげる。窓を乗り越え、裸足の足を下屋に下ろす。
 冷たい雨が身体を濡らす。
 壁に手と膝を付き、壁を這うようにして屋根に上る。
 リキとの一件以降、ユリンはこういうことができるようになった。これが何なのか、彼女自身には、さっぱり心当たりはない。幸い他人に見られたことはないが、気がつくと天井に寝ていて慌てることは幾度かあった。
 屋根の上で身を低くしたまま、耳をすませる。聞こえてくるのは雨の音だけだ。
 それもそうだ。今妓女が一人、屋根の上で息を潜めているなどと、誰が信じるだろう。
 今部屋に戻れば、また退屈な日が続く。
――どうか、私の銀の簪を、家族の元へ届けてください。
 ぎゅっと小包を抱く。
 顔に張り付く髪をかきのけ、ユリンは軽く瓦を蹴った。

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