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遠来の客 後

「で、あたしに何しろっての」
 夕方、オセロ・アパートメントの近くでアツヤに声をかけられたユリンは、彼から話を聞いて、呆れと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
「勝手にしろ。とにかく、伝えるだけは伝えたぞ」
「君、あたしが死んだって手紙出したんじゃなかったの?」
「手紙は出したさ。入れ違いになったか、俺が戻らないんで怪しまれたか、そもそもオウリの若旦那の独断か、そのどれかだろ」
「若旦那の独断ならそれでいいけど、なんでハオランがいるの。楼で働いてたんじゃなかったの、彼」
「お前が逃げた後で、あいつは辞めてどこかに行ったんだよ。どうやって若旦那と知り合ったのかは知らんがな」
「まあそのへんの事情は、確かにどうでもいいけど」
 面倒だなあ、と呟くユリンの隣で、密かにナーヴェールの家を抜け出してきたアツヤは、顔をしかめ、壁にもたれかかってへたりこんだ。彼の顔は夕日の中でも分かるほど土気色で、どう見ても健康な人間の顔色ではない。
「…………病院、行く?」
 アツヤは嫌がるだろうが、流石にこれは、医者にみせるべきではなかろうか。そう思ったものの、予想通り、彼は首を横に振った。
「寝れば治る」
 彼の医者嫌いは承知している。妓楼にいた頃は、若衆に対しては、余程のことがなければ医者など呼ばれなかったし、そもそもその医者も、薬は効くが腕の方は藪だと評判だった。
「タオ!」
 そこへ、いきなり呼ばれた覚えのある声に、ユリンははっと辺りを見回した。
 オウリとハオラン。よく知っている二人が歩いてくるところだった。
 どこをどう辿ってきたものか、ハオランは目の周りを黒くし、唇を切って血を流していた。
オウリも怪我こそしていないようだが、そろそろ寒くなるこの時期に肌着一枚になっている。
「何か?」
「あんたを連れに来たんですよ、タオさん」
「タオなら死にましたよ」
 すい、とハオランが目を細めた。
「いいから来いって言ってるんだよ。あんたに拒む権利なんかないはずだ」
「嫌」
 短く答えると、ハオランの顔が歪んだ。彼の視線がユリンを逸れ、アツヤに向く。
「なんだ、アツヤさん、やっぱり知ってたんじゃないですか。ってことは、タオさんの足抜けもあんたが手引したんでしょ」
「ふざけたこと言わないでくれる?」
 ユリンの語調が、瞬時に氷を帯びる。
「何が悲しくて、こんな人に手引してもらわなきゃなんないわけ? この人に脱走の手引されるくらいなら死んだほうがよっぽどましだよ!」
「誰がこいつの手引なんざするか」
 まくしたてるユリンに続いて、アツヤも顔を歪めて吐き捨てる。
「タオ!」
 駆け寄ってきたオウリが、ユリンの手首を掴む。
「こんなところは早く離れて、私と白羅に帰ろう。もう父はいない。今は私が当主なんだ。だからもう、誰が反対しても、お前を妻として迎え入れることができる」
 熱を帯びた黒い瞳を、冷えた青い眼が見返す。
「お父様は、どうなさったのです」
「いなくなった。もういないんだ。もうお前は何も気にしなくていい」
 ぐい、と手首をオウリの方へ突き上げるようにして、彼の手を外す。
「御親戚の方々の反対もありましょうに。それに、タオはあの夜に死にました。ここにいるのはただの幽霊《ユリン》です」
「何を……何を言うんだ! 誰が反対しようと、そんなやつはいなくなってしまえばいいだけだ! それにお前は生きているじゃないか、幽霊だなんて、そんなことは……!」
「黙って従え、この淫売! お前みたいな白っ首は大人しく従っていればいいんだ! お前たちなんか身体を売るしかできない、男を誑かす以外に能もないくせに!」
 ユリンばかりでなく、アツヤの顔にもさっと憤怒の色が浮かぶ。
 ハオランの言葉は、アツヤが今でも想う女をも侮辱していた。
 怒りのまま、アツヤがハオランに殴りかかるより早く、ユリンが彼の顔を真正面からまともに殴りつけていた。歯で切ったものか、白い手から、赤い血が垂れる。
「あたしのことは、何とでも言えばいいよ。でもそんな風に、あたし以外の妓《ひと》まで言うのは、言うのだけは許さない」
「な――」
 言いかけたハオランの顔へ、今度はアツヤの拳が入る。
 顔を鼻血だらけにしたハオランが尻餅をつく。その腕を、ユリンが掴んだ。
『ちょいと、頭、冷やそうか』
 故郷の言葉で、耳元でそう囁き、自身の異能【重力操作】で、その重力を反転させる。
 途端、二人の身体は空に向かって落ちていった。
 ハオランの喉から絶叫が上がる。彼が高所を殊の外嫌うことを、ユリンは知っていた。
 鐘の塔と、ほとんど同じ高さまで落ちるころには、ハオランは白目を剥き、口から泡を吹いていた。
 ゆっくりと、地面に戻る。ユリンの異能を既に知るアツヤは別段驚きもしなかったが、オウリはたちまち藍をなすったような顔色になった。
「ば、ば、化物!」
 ユリンの喉から、ひゅ、と音がした。オウリを見るその顔に感情はなく、ただ紺青の瞳が、大きく丸く見開かれている。
(あ……泣くな)
 アツヤが思ったその瞬間、ユリンの朱唇が弧を描いた。
 その顔は、彼女がおよそ浮かべたことのない、奇妙に歪んだ嗤い顔だった。
『化物と思われるなら、それで結構。もう二度と、私《わたくし》と添おうなどと思われませぬよう』
 辛うじてハオランを引きずりながら、あたふたと後ずさり、そのまま逃げるオウリに、その言葉は届いただろうか。
 肩で息をしながら、アツヤはちらりとユリンを見た。
 唇をいびつに歪めた嗤いは、まだその顔から消えていなかった。

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