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残映

 ある、夏の日のことだった。
「すいません」
「はぁい」
 久しぶりに三区まで買い物に行く途中、呼び止められたユリンは足を止めた。
 小柄な老婦人。白い髪を綺麗に結って、薄い、白いショールを腕に抱えて、困ったように佇んでいる。
「どうかされました?」
「ちょっとお訊ねしたいのですけれど、此処は、何区かしら?」
「四区ですよ」
 あら、と、老婦人が口に手をあてる。
「どこにお住まいですか?」
「三区なの」
「なら、お送りしましょうか? あたしも三区に行きますから」
 有難う、お願いするわ、と老女は笑った。

 照りつける日の下、通りを歩く。
 幾度か汗を拭うユリンの隣で、老女は汗の玉ひとつ浮かべずに歩いている。
「暑いわねえ。夏だものねえ」
「そうですね。夜も寝づらいですしね」
「そうねえ。家についたら、少し休んでいらっしゃいな」
「ありがとうございます」
 しばらくして、老女に案内された先には、小さな喫茶店が建っていた。
 硝子の嵌った格子の扉を押す。からん、と、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 ベルが鳴ったのを聞いて、店主だろう、中年の小柄な女性が奥から出てきた。
「すみません、こちらのお婆さんをお連れしたんですけど……あれ?」
 女店主が怪訝そうに首を傾げる。
 隣りにいた老女が、いない。
「えっと……、さっきまでお婆さん、いましたよね?」
「いえ、お客さん一人でいらっしゃいましたよ?」
 きょとん、と、目と目を見交わす。
 とにかく席へどうぞ、と案内されて、どこでユリンは事の顛末を店主に語った。
 話すうちに、だんだんと女店主の顔が青ざめてくる。
「お客さん、そのお婆さん、こんな人ではありませんでした?」
 差し出された写真を見て、ユリンは小さく息を呑んだ。古びた写真に映る老女は、確かに先の老女だった。
「この人は?」
「母、です。年があけたころに、亡くなりました」
 そういえば、と思い出す。夏の一時期、死者があの世から帰ってくるという。
 ちょうど今、その時期ではなかっただろうか。
 冷たい紅茶を注文し、充分涼んでから、ユリンは喫茶店を後にした。
「あ、ユリン! 何やってたんだ? 笛の練習?」
 ぱたぱたと駆けてきたナーヴェールが、ユリンを見つけて声を上げる。そのあとから、ウェルナーも歩いてきた。
「ううん、あそこでちょっと涼んでただけ」
「あんなとこで?」
 ナーヴェールの妙な言い方に首を傾げ、後ろをふりかえる。
「え?」
 確かにあったはずの喫茶店は、看板の字も読み取れないほど朽ち果てていた。
「あれ、あそこに喫茶店、あったんだけど……」
「喫茶店?」
 ウェルナーが眉をひそめる。
「ああ、そうそう、昔建っていたね。僕もニコラと何度か行ったっけ。でもだいぶ前に店主さんも病気かなにかで亡くなって、誰も継がないから閉めてしまったって聞いたけど」
 え、と、ユリンはもう一度喫茶店だった建物を見た。窓の硝子は割れ、中は薄暗く埃がつもっている。
 それでもユリンの舌にはまだ、紅茶の味が残っていた。
――ありがとうございました。
 歩きかけたユリンの耳に、あの女店主の声がかすかに届いた気がした。

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