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​籠の段-第一話

 自分が籠の鳥だと知ったのは、果たして幾つのときだっただろうか。
 五つか六つか、禿として妓女の一人、リウの身の回りの世話をし、芸事を教わりながら、いつともなくそれを知っていた。
 そのころは、知ったところで何かを思うわけでもなく、そうなのか、と思っただけだった。
 白羅の国。養蚕と絹織物で名高いこの国の花街。そこで五本の指に入る大見世、連理楼。そこがユリンの籠だった。
 妓楼の中のことなら、ユリンはよく知っていた。それから、花街のことも。
 だが花街の外、大門の向こうについては、街の名さえ彼女は知らなかった。妓《おんな》たちが大門をくぐることは禁じられていた。身請けでもされなければ、彼女たちが外に出ることは叶わなかった。
 そんな街で、ユリンは歳を重ねていった。
 六つの歳に、妓女だった母が身請けされ、妓楼を去った。男と二人、妓楼を出て通りを行く姿を、ユリンは窓から見送っていた。
 リシュと呼ばれていた母、マヤは、ユリンにとって母ではあったが、二人の間に母娘らしい感情はなかった。マヤはユリンを疎み、ユリンも決して母を慕ってはいなかった。
 ユリン《幽霊》の名も母が付けたものではない。妓楼の遣手が、名無しでは、と付けたものだ。幽霊、などと、およそ人に付けるような名ではないが、遣手の故郷の風習で、子供を魔に拐われぬようにするまじないらしかった。
 父のことについては、一度も話題に出たことはない。いつか、マヤの機嫌がよく、珍しくユリンを構ってくれたときに、父は誰かと聞いてはみたが、知らぬと返された。
 この妓楼の禿は――妓女にしても同じだが――大抵、売られて来た者たちだ。ユリンのように妓女が産んだ子というのは珍しい。両親を懐かしむ他の禿の話を聞きながら、ユリンは、自分の父とはどういう人間なのだろうと、顔も名も知らぬ父を時折偲んでいた。


 階上から、誰かの叫び声が聞こえてきた。一階の大部屋で、他の禿とともにユリンは飛び起き、何事かと声のした方へ駆けていく。
 悲鳴のもとはリウの部屋であったようだが、部屋に近付こうとしたユリンを、若衆の一人が制止した。そのまま、下に戻れと追い払われる。
 一階の広間で朝餉を食べながら、新造、禿たちは顔を見合わせていた。
 同じく広間で朝餉をしたためている妓女たちは、何か事情を察しているらしい。ひそひそと、ユリンたちには聞こえぬように、声を潜めて話している。
 その日、見世はどこか不穏で、若衆ばかりでなく楼主までもが、落ち着きなく行き交っていた。いつもの稽古も今日はなく、大人しくしていろとだけ言い渡される。
 昼になっても見世は開かず、代わりに厳《いかめ》しい格好の役人が見世にやってきた。二階に上がっていくのをちらりと見かけ、いよいよ何があったのかと気にかかる。
 こらえきれなくなって、とうとう、手習いをしていた筆を置いて、ユリンは部屋を抜け出した。
 若衆や禿が日頃使う、細い通路に滑りこむ。足音を忍ばせて通路を進み、リウの部屋に続く納戸の一角にしつらえられた隠し戸から中に入る。
 こうした隠し戸や通路は、このときの妓楼では見られたもので、例えば顔を合わせたくない客同士に、互いの顔を見せることなく外へ誘ったり、あるいは心中でもしそうな客や、様子のおかしな客をこっそりと見張るのに使われていた。
 もっとも、こうした隠し通路は妓女の脱走の助けになるうえ、取締にも甚だ不適当であったので、後年、ユリンが妓女として“桃《タオ》”の名を授かるころには、全てなくなってしまっていたが。
 リウの部屋へ続く戸に、耳を寄せる。
――身元は。
――は。まさしく唐谷の若主人にて。
――先刻遣手より聞き取りましたところ、唐谷の若主人はこの妓《おんな》の上客であったそうで。
――やはりこれは心中かと。
――しかし念の為、聞き取りはいたすべきかと存じます。
 心中。
 とっさに口を押さえ、固まった足を動かして戸から離れた。
 心中、が何を意味するのか、幼いユリンでも知っている。朝からの騒ぎが、すとんと腑に落ちた。
 通路に出て、部屋には戻らず裏庭へ駆け出る。蔵の影に隠れるように、身体を縮こませて、きつくきつく、唇を噛んだ。
 きっとリウはもうこの世にいない。ユリンに笑いかけてくれることも、褒めてくれることもない。
「あー! ユウ、またこんなところでさぼってる!」
 駆けてきた足音に顔を上げ、相手を見て口を尖らせる。
「ヤオ」
 着物の裾をからげた、黒髪に黒い目の少年が、こちらもむっつり不機嫌顔でユリンを見下ろしていた。
 ヤオ、後にアツヤと名を変えるこの少年も、ユリンと同じく妓女が産んだ子で、ユリンよりも二つ年上の十歳、今は若衆の見習いのような形で、妓楼で下働きをしていた。
「さぼってないもん。またってなに、またって! 前だってさぼってないもん!」
「さぼってんじゃんか! 姐さんの手伝いしなきゃだめなんだろ!」
「今日はお見世は閉まってるじゃない! お稽古もないし、だいたいヤオだってさぼってるんでしょ、お掃除の時間はすぎてるし、お蔵に用なんかないでしょ! どうしてこんなところに来るの!」
 この二人、境遇は似ながら、とかく馬が合わない。顔を合わせれば、どちらからともなく口喧嘩を始めるのが常だった。
「なんだなんだ、ちび犬ども。まぁた喧嘩か」
 そこに割って入ってきたのは、見世の若衆、アンキだった。六尺ゆたかの大柄な身体をゆうゆうと運んでくるなり、ひょいとヤオを担ぎ上げ、二人を引き分ける。
「だって、ユウがさぼってんだもん」
「さぼってないったら!」
「こら、ちびども、喧嘩はやめろってんだ。晩飯の澄ましの具にして食っちまうぞ」
「やだあ」
 笑いながら、ユリンがひょいと身をすくめる。
「ヤオ、厨《くりや》の手伝いに行ってこい。お役人の旦那方がおこしだ、茶の一杯でも出さなきゃあな」
 地面に下ろされたヤオが、渋い顔ながらも調理場に駆けていく。最後にべえ、とユリンに舌を出すことは忘れない。
「ユリン、……まあ、ここでいいか。ちょいと話がある」
 この話を伝えるのは、気が進まない。
 普段から快活なアンキが、ふと顔を曇らせたことに、ユリンは首を傾けた。
「なあに?」
「リウの、姐さんな。朝、亡くなったんだ。明日から、別の姐さんについてもらうことになる。分かったな?」
 ユリンがしゅんと肩を落とす。つかの間、ぐしぐしと目元を拭って、少女はしゃんと背を伸ばした。
「うん、分かった」
「いい子だ。それでな、お偉い旦那方が、ちょっとユリンに話があるんだそうだ。なに、難しい話じゃない。ちょいと二、三、聞きたいことがあるだけだ。来てくれるな?」
 否やはない。どうやら他の新造、禿への聞き取りは終わっているようで、アンキに連れられたユリンにはちらちらと視線が向けられた。
「その禿か?」
「はい。件の妓女とは常日頃より睦まじくしていた者でございます。ご覧の通り、まだ子供でございますので、お調べはどうかお手柔らかに願います」
 いくらか固くなったアンキに、軽く前へ押し出される。
 教わったとおりにきちんと座り、ユリンと申します、と頭を下げる。
 泣いていたのか、目元を赤くした少女――おそらくは事情を察しているのだろう――が、それでも異国の血を示す青い目を、まっすぐに向けて、話を聞こうとしている。
 そこに居並んだ、花街の治安を預かる役人らは、少しの間目を見交わして、役人の中でも四十がらみの、痩せた男がユリンの聞き取りにかかった。
 リウの様子に普段と違うことはなかったか、妙な素振りはなかったか、と訊ねられ、心当たりのないユリンは素直にそう告げる。
 ユリンへの聞き取りは言葉通り、型式だけのもので、すぐに終わった。聞き取りの後、手習いを抜け出していたことで少しばかり小言を言われたが、それも長い時間ではなかった。
 夜の内に、リウと相手――町で冨貴として知られる問屋、唐谷屋の長男――の遺体は運び出され、部屋は片付けられた。
 リウの面影は翌日には、まるで忘れられたかのように、口の端にさえ、上らなくなった。初めから、いなかったかのように。

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